津山市などでつくる「津山まちじゅう博物館コンソーシアム」は、2026年4月、津山城を再現した新しいCGを、市内3つのデジタルサイネージで公開しました。現存する図面を参考に、天守内部の部屋の間取りや柱の位置など細部まで忠実に再現しています。
CGの中で、ひときわ目を引くのが、津山城の特徴である天守最上層の客間、「上段の間」に吊るされた「釣鐘」です。九州・小倉藩主だった細川忠興が津山城の完成を祝い、親しかった津山藩主・森忠政に贈ったもので、中央には大きな丸を小さな8つの丸で囲む、細川家の九曜紋(くようもん)が入っています。
この鐘は、そのフォルムから別名「朝顔の半鐘」とも呼ばれる〝南蛮風”のものであることは、興味深い点です。(ここで言う〝南蛮“とは、外国、特に西洋の文化に影響を受けた様式を指します)南蛮鐘は大阪市の南蛮文化会館に現存していて、南蛮文化会館の図録によると、16世紀に伝来したキリスト教に由来する別名「キリシタン鐘」などとも呼ばれるものです。鐘の裾には南蛮唐草の模様が施されています。
CGの制作に当たっては実際の鐘の音を収録していて、一般的な日本の鐘の音とは異なる透明感のある高いトーンの響きを、デジタルサイネージで聞くことができます。
鐘を贈った細川忠興の妻は、悲劇的な運命を辿る熱心なキリシタンの細川ガラシャで、忠興も西洋の文化に造詣が深かったと言われています。鐘の音を聞きながら、あれこれ想像するのも楽しそうです。
ところで、津山城と細川忠興には興味深い逸話があります。
津山藩主・森忠政は津山城の築城にあたり、当時、小倉に建てられたばかりの巨大な城を参考にするため大工の保田惣右衛門(やすだそうえもん)らを現地に派遣したと伝わっています。森家の家史である「森家先代実録」(赤穂藩主森家が編纂)によると、小倉城天守の木図(木製の模型)を参考に建てたことがうかがえます(参考文献 三浦正幸・広島大学名誉教授「近世城郭の作事 天守編」)
伝承によると、保田らは、海に船を浮かべて小倉城について調べていたところスパイ行為を疑われ捕らえられますが、細川忠興は彼らが忠政の家臣だと知り、笑って許した上に城内を案内し、「設計図」まで与えて帰国させたなどとも伝わっています。一歩間違うと、大きな騒動に発展しかねないような状況ですが、茶の湯を通じて昵懇だったとされる森忠政と細川忠興の間柄を物語るエピソードです。
城郭建築を研究している広島大学の三浦正幸名誉教授は、著書「近世城郭の作事 天守編」の中で、津山と小倉の2つの城について、共に「破風のない層塔型である」「四重目の屋根が板葺きで名屋上は省略されている」「最上階の中央に上段の間がある」「一階の階段室に湯殿・揚がり場がある」「一階と二階の身舎の間取りが小倉城の二階や三階に似通っている」などと共通点を挙げた上で、「伝えは史実であったと確認できる」との見解を示しています。
明治時代になり、政府は1873年に廃城令を公布。津山城の天守は1874年に解体されました。南蛮鐘はこの解体まで、天守の最上層の天井に吊るされ、その鐘の音は代々、町中に響きわたったとも言われています。
津山城のCG再現事業は、文化庁の「文化財多言語解説整備事業」の補助を受け、市が2024年から津山城と文化財のデジタル化を進めているものです。各コンテンツに6言語で詳細な解説を付けるなど、海外からの観光客のニーズに応えています。