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【特集】激しい副作用や死者も…旧日本陸軍が研究を進めていた薬剤「虹波」 ハンセン病患者への投与の実態は 岡山・香川

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 太平洋戦争中、旧日本陸軍が身体機能の増進などを目的に研究を進めていた薬剤「虹波」。当時、特効薬がなかったハンセン病についても治療効果を確かめようと熊本県の療養所で臨床試験が行われ、激しい副作用や死者が出たという記録が残っています。しかし、臨床試験は中止されることなく、その後、香川県など他の療養所でも行われました。さまざまな資料や証言から浮かび上がる、その実態とは。

 熊本県の国立ハンセン病療養所「菊池恵楓園」に保管されている実物の虹波。写真などに使われる感光色素を用いた薬剤で、元々は体質の改善や結核の治療を目的に、医師が戦前から研究を進めていました。

 太平洋戦争中には、当時、特効薬がなかったハンセン病への効果を確かめようと、菊池恵楓園で臨床試験が始まりました。

 主導したのは、虹波に関心を持ち、身体機能の増進などを目的に研究を進めていた旧日本陸軍です。

(菊池恵楓園 歴史資料館/原田寿真 学芸員)
「太平洋戦争中ですので国に対して奉仕するのが当たり前であるという、そのようなことが信じ込まされている、そのような状態でした。
それ(臨床試験)が国のためになるということを言われるのであれば、受け入れることが当然だとみなされるような試験だったのではないかと思います」

 園の歴史資料館では「虹波」の臨床試験の実態を明らかにしようと資料の調査を行い、2024年、中間報告をまとめました。

 報告によりますと臨床試験は1942年12月から1947年6月まで行われたとされています。

 1943年10月の記録には、ランダムに選んだ被験者380人に、飲み薬のほか、筋肉や静脈への注射などさまざまな方法で虹波を投与したことが書かれています。
 中には6歳の子どももいました。

 そしてこの時点で倦怠感やめまいなどさまざまな副作用があったことが確認されています。

 また、試験中に亡くなった9人の被験者のうち2人に激しい副作用がみられ、虹波との因果関係が疑われることも記されていました。

(菊池恵楓園 歴史資料館/原田寿真 学芸員)
「医学的な裏付けが十分でない状態で試験が実施されたことが最大の問題。とにかくいろんな方法を試してみて、そこから効果がある方法を見出そうという意思が見受けられる。やや乱暴な感じは否めないですよね」

 中間報告書では、被験者が医師から十分な説明を受けていなかったことや、参加を拒んだり、中止を訴えたりすることができなかったことなど9つの問題点を挙げています。

 そして、副作用や死者が出ていたにもかかわらず、医師らは「副作用は命に関わるものではなく、問題視する必要はない」などとして、「被験者の約8割に効果があった」とする成果を強調しました。

 それを裏付けるために制作された映像も残っています。

 虹波の投与によって、ハンセン病の影響で右足を引きずっていた男性が正常に歩けるようになったり、握力が弱く、箸を持てなかった男性が、食事できるようになったりする事例が記録されています。

 ただ、これらの記録は現実とかけ離れた「つくりもの」の可能性が高いといいます。

(菊池恵楓園 歴史資料館/原田寿真 学芸員)
「当時の入所者の聞き取りでは、やはり医師に対して本音が言えなかった、本当は体調が悪かったとかあるいは成果が出ていなかったけれど医師への遠慮から、より大きくその効果が出ているように装ってしまったという証言が得られていますので、その部分の過剰な表現があったように思います。ただ、今後の資料の中で治療効果が実際にあった部分が見受けられる可能性がありますので、今後の考察を待たねばなりません」

 特効薬がなかった時代、ハンセン病は感染力が弱い病気であるにもかかわらず、「恐ろしい病気」だと考えられていました。いわれのない差別や偏見、国の強制隔離政策によって患者は療養所での生活を余儀なくされ、医師に逆らえない風潮があったのではないかとされています。

 1943年10月ごろまでは「高い治療効果があった」とされる臨床試験ですが、その後、効果は低減し、副作用がより多くみられるようになりました。しかし、医師らは、薬の成分変化が原因であるなどとして、それを確かめるための臨床試験を続けました。

(菊池恵楓園 歴史資料館/原田寿真 学芸員)
「戦時中の段階では軍の方から予算が出ていることもあって、途中から治療効果が低減したとか、治療効果が見込まれないという段階においても簡単にはそれを撤回できなかったのではないかと思います」

 菊池恵楓園で確認された被験者は少なくとも472人、被験者の可能性があるのは370人で、今後の調査でさらに増える可能性があります。

 また、さまざまな記録から、他のハンセン病療養所でも虹波の臨床試験が行われていたことが分かっています。

 そのうちの1カ所が高松市にある「大島青松園」。1942年、10歳で入所した松本常二さん(93)は、当時のことを鮮明に記憶していました。

(虹波の錠剤を飲んだ入所者/松本常二さん)
「虹波の反応が出ると(医師は)『反応のない薬は効きはせん、反応があるから効くんだ』と言って」

 戦時中の1943年から44年ごろにかけて、半年ほど「虹波」の錠剤を飲まされ、高熱や神経痛に苦しんだり、ハンセン病の症状が悪化したりしたことがあったといいます。

(虹波の錠剤を飲んだ入所者/松本常二さん)
「病気が騒いだり、痛んだりするもんだから、吐き出して玄関に捨てていたんです。(医師らが)それを見て今度は『舌を上げてみなさい、隠さないように』。飲み込むまで飲まされて、そういう強制的な、本当に恐ろしい時代でした」

 1947年に出た皮膚科の専門雑誌には、大島青松園で患者180人に臨床試験が行われたことが記されています。

 「臨床的効果は少なかった」「副作用が多かった」などとする一方で、「虹波はハンセン病に対して今後大いに研究されるべき」だとしています。

(虹波の錠剤を飲んだ入所者/松本常二さん)
「人間のモルモット。うまく利用されたと思って。弱い者いじめで」

 大島青松園入所者自治会の森和男会長は……。

(大島青松園入所者自治会/森和男 会長)
「(医者は)病気をよくしようとしてやったんだろうけど、十分な治験もしないでいきなりやってしまうから、これは人体実験やね。虹波の場合は明らか、軍の力で無理やりやらされた。昭和18年は軍の言うことは絶対。その下に園長がいて、それもまた絶対。子どもはおとなしくて、反抗しなくて従順だから、医者としてはやりやすかったんでしょう。歴史の暗黒の部分だからそのままにしておくわけにはいかない。
できるだけ明らかにしてもらえたらいいと思う」

 一方、瀬戸内市にある長島愛生園では、戦後に臨床試験が行われた可能性があると指摘されています。

 医師でもある山本典良園長は「今のところ具体的な資料や証言は見つかっていない」としたうえで、臨床試験の問題点について……。

(長島愛生園/山本典良 園長)
「最初は熊本、宮崎園長のもとで『効果がある』と。それが本当かどうか各療養所で調べた。効果があったんだったら自分たちも使いたい、それは医者も患者も思うわけです。だけどその結果、効果がないという結論になった。結局は問題は、効かないと判断した時にやめるという選択肢を早く持つということです。効くかもしれない、これを使い続けたい、という考えを断ち切る決断、その決断がやはり甘かったと」

 園にはのべ7000人ほどのカルテが残っているものの、情報量が膨大な上、仮に臨床試験が行われていたとしても記載されていない可能性があるといいます。

(長島愛生園/山本典良 園長)
「7000人すべて調べて虹波の記載がないからと言って、使われていないということには決してならないんです」

 菊池恵楓園歴史資料館の調査によって、これまでに、全国5カ所の療養所で虹波の臨床試験が行われた事実や可能性があることが分かっています。

(菊池恵楓園 歴史資料館/原田寿真 学芸員)
「各療養所における調査が進められて総合的な考察が今後進んでいけば、ハンセン病問題から得られる教訓もより深くなると思っています」

 「虹波」の調査を巡っては、それぞれの療養所にある個人情報を含む資料の保存や活用にどう取り組むべきかなど、さまざまな課題もあるということです。

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