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【特集】ハンセン病療養所入所者の遺族が知る「生きた証」 長島愛生園が記録を開示 岡山

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 岡山県瀬戸内市の国立ハンセン病療養所「長島愛生園」に入所していた曾祖母について知りたいと、遺族の女性が園に残る記録の開示を求めました。手元に届いたのは、過酷な強制隔離の時代にさらされた曾祖母の「生きた証」でした。

(長島愛生園入所者の遺族/三好真由美さん)
「長島愛生園に入所していたのは、政石コメといいます。私の実の曾祖母です」

 愛媛県に住む三好真由美さん。ハンセン病を患い、長島愛生園に入所していた曾祖母・政石コメさんの記録の開示を十数年前から求めていました。

(長島愛生園入所者の遺族/三好真由美さん)
「(最初に問い合わせた)その時は『見つからない』というお返事をいただいて、やっぱりあきらめきれなくて、何度か問い合わせの形で連絡は入れていて、ただ、年々その思いは強くなっていて。(最近になって)他の方の記録があったというのを報道で見て、じゃあ私のも開示してもらえるんじゃないかと思って」

 2023年になって手元に届いた記録は全部で27枚。遺族が今まで知りえなかったさまざまな「事実」を告げるものでした。

(長島愛生園入所者の遺族/三好真由美さん)
「政石コメの写真です。ここに入った時の……裸でね、裸にされて。両腕で隠してね、悔しかっただろうと思いますね。こんな写真を撮られて」

 初めて知った曾祖母の顔。

(長島愛生園入所者の遺族/三好真由美さん)
「思い切って開封したら入っていたものがこういったもので」

 政石コメさんは1940年、61歳の時に長島愛生園に強制隔離されました。

 ハンセン病は感染力が非常に弱く、戦後には治療法が確立し、完治する病気になりました。しかし国は法律を定め、約90年もの間、患者の強制隔離を続けたのです。

(長島愛生園入所者の遺族/三好真由美さん)
「収容年月日が書いてあるので入所した時の記録じゃないかと思います」

 入所時の記録には8ページにわたって、コメさんの当時の病状などが詳しく記されています。

 長島愛生園に今も残る「収容所」の跡。患者はここで、逃走防止のために金品などを没収され、入所手続きをしたり検査を受けたりしました。

(長島愛生園入所者の遺族/三好真由美さん)
「この絵が……けっこう広い範囲で知覚麻痺(ハンセン病の症状)がありますね。それから浸潤が大きい。体全体を見られたということですよね。こういう図で残っているということは……」

 徹底した強制隔離政策によって「ハンセン病は恐い病気」という誤った認識が広まり、患者やその家族は、いわれのない差別・偏見に苦しみました。

 コメさんは入所した翌年の1月に、62歳で亡くなりました。海に身を投げ、自殺したのです。

(長島愛生園入所者の遺族/三好真由美さん)
「(記録を見る前から)長島愛生園に行ったというのは知っていました。入水自殺したというのも知っていました。悔しかったろうなと思います。寂しかったろうし、怖かったろうし」

 コメさんには夫と7人の子ども、そして三好さんの母にあたる孫の妙子さんもいました。妙子さんにとって、コメさんは母親代わりだったといいます。

(長島愛生園入所者の遺族/三好真由美さん)
「隔離政策がなかったら、周りを気にしてひっそりとでも、ずっと暮らしていて、最後は、優しい夫とか、子どもたちに見守られて亡くなったと思うんですね」

 死体検案書には、コメさんの死亡推定時刻や発見当時の様子が記されていました。

『昴病室南岸桟橋先の海面に漂流』

(長島愛生園入所者の遺族/三好真由美さん)
「昴という病室の南側にある桟橋の先から飛び込んだのかな、その先に漂流していたみたいですね」
「右足切断されていますね、そして義足を使用していたみたいですね」

『らい性変化のため、すでに切断され、義足を使用』

(長島愛生園入所者の遺族/三好真由美さん)
「(コメさんが亡くなった時の状況は)これを読んで初めて知りました。体の震えが止まらないぐらいむごい内容なんですけど、ひいばあちゃんが生きていた事実なので。最後の様子なので、見届けられました、やっと」

 コメさんの7番目の子ども、政石道夫さん。母親と同じハンセン病を患い、1948年から、高松市の大島青松園に入所していました。

(長島愛生園入所者の遺族/三好真由美さん)
「コメの息子である政石道夫は私の母からしたら10歳ぐらい離れているんですけど、お兄さん代わりでお父さん代わりだと言っていましたね」

 三好さんにとって大叔父にあたる道夫さんは、幼いころから交流を続けていた身近な存在だったといいます。

(長島愛生園入所者の遺族/三好真由美さん)
「私も子どもたちも政石道夫の、大叔父のことが大好きで、好きで好きでたまらなくて、『海のじいちゃん』って呼んでいたんですね」

 歌人「政石蒙」として活動していた道夫さん。母のコメさんについて直接語ることはほとんどなかったそうですが、このような文章を残しています。

(随筆「思い出の母」1955年)
「母は自分の病気のために私の出世が妨げられはしないかと、ひどく気に病んでいたのだった。子供のことを気にしながら、松葉杖にすがって、死に場所を見つけて歩いた母なのである。母を想うとき、私はいつだって切ない」

 三好さんがコメさんの記録の開示を求め始めたのは道夫さんが亡くなった後のことです。

(長島愛生園入所者の遺族/三好真由美さん)
「道夫が亡くなった時、私たちは立ち会えなかったんです。私が政石道夫の死に目にあえなかったことがつらくて、政石道夫は母親の死に目にあえなかったことがつらくて、でもよくよく考えたら私たちよりも亡くなった本人の方が寂しくて悔しくて悲しかっただろうなと思っていたんです。(曾祖母は)誰にも会えなかったし、誰も存在をちゃんと最期のことを話してくれる人がいなかった」

 長島愛生園では2021年、1931年から1956年の間に亡くなった入所者の約8割、1834人分の解剖記録が見つかりました。

(長島愛生園入所者の遺族/三好真由美さん)
「(外国語で)読めないんですけど、思うに解剖記録じゃないかなと。ここに、剖検願というのがあるんです。『死んだら研究のために私の体を提供しますよ』ということを、願っているんですけど、亡くなったのが1月17日で、剖検願を出したのが(1週間前の)1月10日。本当にこれが不自然です。想像ですけど亡くなった後に作られたものじゃないかなと思います」

 ハンセン病療養所での病理解剖をめぐっては、強制隔離政策のもとで「適切な同意を得て行われていたのか」など、さまざまな問題点が指摘されています。

(長島愛生園入所者の遺族/三好真由美さん)
「これがあるから解剖したんですよ、ということじゃないですか。でも本人はされたくなかったと思うんですよね、ただもう死にたかった。自分の存在が家族の邪魔になるかもしれない、そう思ったかもしれんし、もうここでの生活が本当につらかったかもしれんし、多分その両方かな。だから自殺したんだと思うけど、そんな人が解剖願を出すわけない」
「他人の話だと思っていたから、解剖は。ずっと昔のことで、私の知らない世界のことで事実ではあるけれど、自分に直接関係ないとずっと思っていたから。肉親がこんなことされていたって、今頃になって分かるとは思わなかった」

 解剖記録などの資料は本来、医師や遺族だけが閲覧できるものですが、長島愛生園でこれまで開示を求めた遺族は三好さんを含めて2人です。

 三好さんは、園に残る解剖記録などについて今後、保存が進むことを願っています。

(長島愛生園入所者の遺族/三好真由美さん)
「ひいばあちゃんが生きていた証なんですけど、第三者からしたら資料なんですね。強制隔離という、まちがったことがあったという。何かの公な形で残していけるようになったら。(強制隔離は)国が行ったまちがいなんですね。まちがった法律を作って、それに踊らされた人たちが差別や隔離、それに同調して、排斥・排除しようというのが広まって……。本当にまちがった世の中だったんです。ただ、繰り返したらだめだと」

「こういう負の歴史ってなかったことにしたらだめだと思うんですね。読めるものなら読みたいです。何のためにここまでしたのか知りたいです。知らないといけないような気がします。ちゃんと最後まで全部」

 私たちは三好さんの了承を得て、獨協医科大学の木村真三准教授に解剖記録の解読を依頼しました。木村さんは三好さんと同じく長島愛生園入所者の遺族であり、大伯父にあたる「木村仙太郎」さんの解剖記録を公開しています。

 KSBでは、今後もこの話題をお伝えしていきます。

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