8月15日、終戦から76年を迎えます。5歳のときに高松空襲を体験した女性は、逃げ込んだ防空壕から出た時の光景を文章に残していました。
高松市の高木和子さんは取材した日が82歳の誕生日でした。
(高木和子さん)
「きょうなんです。ありがとうございます。みなさんに少しでもお伝えすることができたらと思います」
アメリカ軍による高松市への空襲が行われたのは76年前、高木さんが5歳の時でした。
1945年7月4日未明。116機のB29が高松市に襲来し、800トン以上の焼夷弾を投下しました。市役所近くの自宅にいた高木さんは国民学校の防空壕に逃げ込みました。空襲が収まり、外に出ると……。
(手記朗読/高木和子さん)
「夜が明け防空壕のふたが開けられた。その光景は幼い5歳の私の目に心に生涯忘れられぬ残酷なものになって焼きついた」
2014年、高木さんは記憶が鮮明なうちにと5歳の時に見た光景を書き記しました。
(手記朗読/高木和子さん)
「焼けただれた街路樹の根元にスズメが1羽死んでおり、逃げるとき母が握らせてくれた卵が割れ目玉焼きのようになっていた。乳母車は骨組みだけになり燃え尽きた」
「長い年月を経ても目玉焼きを子どもたちに作れなかったのも、忘れられないこの日の朝の光景である」
市中心部の約8割が火の海となり、1359人が命を落とした高松空襲。高木さんは祖父や叔母、いとこら合わせて10人の親族を一夜にして亡くしました。
2020年、107歳で亡くなった高木さんの母親は毎日仏壇に手を合わせていたそうです。
(手記朗読/高木和子さん)
「小さな命が空襲で失われる瞬間はいかがであっただろうかと、ただただ無念の涙が今もこみ上げる。中野町六角堂の石碑に刻まれた10人の名前を撫でつつ、絶対に戦争があってはならない。82歳の私は祈り続けます」
(高木和子さん[82])
「あなた方の死が無駄にならんように平和な世の中に頑張りますっていうことをね、天国で見守っててねっていっつも言ってます」