7月4日で、「高松空襲」から76年が経ちます。
高松市に住む男性は「国のため」と14歳で陸軍少年飛行兵に志願し、高松空襲を体験しました。目で見たものを残しておこうと80歳を過ぎて書いた高松空襲体験録。男性が思う戦争の「恐ろしさ」とはーー
(藤村雅範さん)
「日本男児はこうあるべきだと言うたら『はいー!』なりよった。そんなかに私も入っとんや」
高松市太田下町に住む藤村雅範さん、90歳。かつては高松市の小・中学校で教師をしていました。
その藤村さんが5年ほど前に書き始めたのが、14歳のときに体験した「高松空襲の記録」です。
藤村さんは現在の高松市太田下町、旧太田村で農家の三男として生まれました。
1945年4月、14歳で陸軍の少年飛行兵に志願し、訓練用の飛行機を造っていた高松市の工場に配属されました。
1945年7月4日の未明、藤村さんは自宅にいました。
『ドドドド……と、台所の窓ガラスが大きく響いた。北の空がうっすら赤くなり、ウオーン、ウオーンと、飛行機の爆音。アッ、B29だ。空襲だ。高松がやられだした。弾は空中でさく裂し、小さな火玉となって滝のように降り注いでいる』(高松空襲体験録より)
多くの人が高松市の中心部から南に向かって逃げる中、藤村さんは、配属先に戻ろうと北に向けて走りました。
(藤村雅範さん)
「そのときはただ無我夢中で、なにくそ戦争がアメリカに負けるわけがなかろうが。歯ぎしりかみながら火の中を通って行った」
『(栗林公園)北門から少し北へ行った所に橋がある。水はあまりない。近くの住民が防空壕がわりに逃げ込んだのだろう。中から「水、水、水……」と水を欲しがる人の声が聞こえた。私はそこを通りすぎて、山ぎわを西へ向かった――』(高松空襲体験録より)
(藤村雅範さん)
「水をやってやるんじゃほんまは、今だったら。やるんが当たり前なんや人間として。ところがそんな気が起きんのや。むしろまだそうならしたアメリカや敵の国を憎みはしても。水をやらないかんと思いもしない。そういう人間に戦争は駆り立ててしまった。それが恐ろしい。だから戦争は二度としたらいかん」
藤村さんが書き上げた体験録は地元の郷土誌研究会の冊子に掲載されました。
7月4日で高松空襲から76年が経ちます。
(藤村雅範さん)
「かわいそうにのぉ、どないしよったんじゃろか、どうしてあないなったんじゃろか、あんときえらかっただろう、そんなことは考えられない。そういうように荒ぶというか、心が荒々しくして。そんな人間になってしもうた。あぁ、不思議だわ」