今から70年前、乳児が飲む粉ミルクの製造過程で猛毒の「ヒ素」が混入し、深刻な健康被害をもたらした「森永ヒ素ミルク中毒事件」。高齢期を迎えた被害者の「いま」をお伝えします。
「森永ヒ素ミルク中毒事件」は、戦後の高度経済成長の時代に起きた「食品公害」です。
1955年6月ごろ、西日本一帯で乳児に発熱や嘔吐、肝臓の腫れなど、原因不明の症状が相次ぎ、特に岡山県では、多くの患者が病院に殺到しました。
岡山大学医学部の調査によって原因が「ヒ素中毒」であると判明したのは、約2カ月後。森永乳業徳島工場で製造された粉ミルクに猛毒の「ヒ素」が混入していたのです。
食用に適さない質の悪い添加物を使うなど、ずさんな安全管理が乳児に深刻な健康被害をもたらしました。当時の被害者は1万2000人以上、このうち130人の幼い命が奪われました。
そして、事件はいまも終わっていません。
被害者「もっと違う人生があったんじゃないか」
全国で初めて確認された、ヒ素が混入した未開封の粉ミルク缶。2023年、岡山大学で被害者のカルテとともに公開され、多くの人が見学に訪れました。
(森永ヒ素ミルク中毒事件 被害者/池田光さん[当時68歳])
「僕の68年間は何だったのか。毒が入った粉ミルクを飲んだために障害を受けた。もっと違う人生があった。見ると悔しい」
広島県からやってきた被害者の池田光さん。幼い頃から脳性まひによる身体障害や言語障害などがあります。
森永ヒ素ミルク中毒事件の被害者に重度の身体障害や知的障害を含むさまざまな「後遺症」がある可能性が指摘されたのは1969年。
事件からわずか数カ月後、国が設置した第三者委員会で専門医らが「後遺症の心配はほとんどない」などと結論付けたため、被害者の健康被害は14年もの間放置され続けていたのです。
幼くして家族と離れ離れの生活に…
事件から70年が経ったいま、池田さんに改めて話を聞きました。
(森永ヒ素ミルク中毒事件 被害者/池田光さん[70])
「私は7歳までは実家で過ごしていたんですけど、肢体不自由児施設に入って、それからはずっと実家と離れて暮らしていました」
幼くして家族と離れ離れの生活を余儀なくされた池田さん。障害のために大学進学を断念し、養護学校を卒業した後は企業に就職しました。
事件の被害者として認定を受けたのは、1974年以降。後遺症が明るみに出た後、森永乳業がすべての被害者を生涯にわたって救済することを約束し、救済事業を行う「ひかり協会」が設立された後のことです。
(森永ヒ素ミルク中毒事件 被害者/池田光さん)
「(被害者だと知った時は)怒りが湧いてくるというか、ムカムカとしていました。粉ミルクを飲んでいなかったら違う人生があったんじゃないかと。粉ミルク缶を見た時、改めてショックを受けたし、怒りがありました」
池田さんは27歳の時、訪問介護員だった女性と結婚しました。妻は池田さんの障害を理由に家族から結婚を反対されていましたが、2年間説得を続けたそうです。
仲間や家族に支えられながら、力強く人生を歩んできた池田さん。今は妻と2人の子ども、6人の孫に囲まれて暮らしています。
わが子の成長と健康を案じ続ける日々
その姿を見守り続けてきた池田さんの母・富美子さん。95歳になった今も、事件当時のことを鮮明に覚えています。
母乳が出ず、薬局で買って飲ませていた粉ミルクに「ヒ素」が混入していました。
(池田光さんの母/富美子さん[95])
「(体に)悪いとは思ってないから、高いミルクでも栄養不足だと言われたから、ミルクを飲みなさいと言われてそれからずっと」
しかしその後、池田さんに発達の遅れがみられるようになり、富美子さんは自分を責めました。
(池田光さんの母/富美子さん)
「よその子がみんな元気なのにうちの子だけ歩けない、ものもはっきり言えないから、いじめられるんです。かわいそうで……」
(池田光さんの母/富美子さん)
「実家に大きな池があるんです。私が飛び込もうと思ったら子どもが泣いたんですよ。それまで笑いよった子が『うわ~ん』って泣いたんです。それで我に返って……『この子を死なせたらいけない』と我に返った時が一番つらかったです」
(池田光さんの母/富美子さん)
「離れて暮らすのはつらかったけど、子どものためにはそれ(施設)がいいと言われて、あの子も頑張ってくれて。本当にあの子はいい子です。私はようしてやらんけどあの子は宝です。宝物です、私にとっては」
わが子の成長と健康を案じ続けてきた長い長い年月……。
被害者同士のつながりが励みに
若い頃から被害者団体の活動に参加し続けている池田さん。7月、広島県江田島市の被害者の家に集まり、理学療法士を招いて生活の困りごとなどを共有しました。
(被害者)
「特にこの右の手首から先がしびれて……日々痛みとの戦い」
「年々動きにくくなってくる。説明はするけど周りからなかなか理解してもらえない」
高齢期を超え、障害のある被害者はさまざまな健康への不安を抱えています。
池田さん自身も体の痛みやふらつきなどがありますが、こうした被害者同士のつながりが自身の励みになっていると話します。
(森永ヒ素ミルク中毒事件 被害者/池田光さん)
「やっぱり粉ミルクを飲んだ同じ苦しみを抱えている仲間として、気心が知れた人たちなので、やっぱり宝物です。みんなと気持ちを共有することによって、思いが同じになる」
事件から70年。池田さんが次世代に伝えたいことは―
(森永ヒ素ミルク中毒事件 被害者/池田光さん)
「私の場合は食品公害だけど、小林製薬の紅麹の事件が起こりました。ああいう事件が毎年のように起こっているというのが、被害者としてはやるせないというか、こういうことを二度と起こしてはいけないということを強く思います。まずはやっぱり安心安全を第一、命を生活の第一に考える社会をつくってほしいと思います」
(2025年9月1日放送「News Park KSB」より)