東日本大震災から今月11日で14年。当時、小学生だった女性が亡くなった親友との「約束」を果たし、学校の「先生」になります。VTR中に津波の映像が流れるため注意して下さい。
■想いを込め“それぞれの3.11”
「この日を忘れない」。それぞれの想いが込められた黄色いハンカチ1200枚が海風になびいています。
栃木から来た人 「ここらへん本当に何もなかった、十何年前には。それがこれだけ復興したのがすごく励みになっている」
宮城県女川町。記憶を風化させないようにと、7年前から行われているのが「幸せの黄色いハンカチプロジェクト」です。
参加した大学生 「心の復興とかケアとか、伝承していく部分はこれからも必要だと思っています」
校舎の3階に流されてきた車。気仙沼向洋高校の旧校舎は「震災遺構」として、当時のまま残されています。
語り部の高校生 「南海トラフとか首都高直下地震とか、もしそういうのが起きた時に(震災遺構を)思い出してもらって“高い所に避難しよう”となってくれたら」
東日本大震災から11日で14年。
午後2時46分を福島県双葉町で迎えた女性。数年前、避難先から双葉町に戻ってきたそうです。
双葉町に住む女性 「やっと戻れてうれしいんですけど、昔のママ友とか友達とか親戚とかもいなくて…」
町内で暮らす人は原発事故前の2%ほど。除染によって生じた土をどうするかも大きな課題となっています。
双葉町に住む女性 「もう元に戻れないなと、残念に思っている。でも、これから前向きにどんな双葉町になるのかなと」
警察庁や復興庁によりますと、関連死も含めると東日本大震災による死者・行方不明者は合わせて2万2000人以上。
追悼の祈りはここでも。震災で400人以上が亡くなった岩手県大船渡市です。
先月26日に発生した山火事では市全体の9%にあたる約2900ヘクタールを焼失し、210軒の建物に被害が出ました。
山火事で被災 佐々木文助さん(75) 「(津波は)すごかったよ」 「(Q.きょうで震災から14年だが?)そうだよね、まさか火でやられると思わなかったな」
家族で祖父の代から続く商店を営んできた佐々木さん。今回の山火事で2階建ての店舗兼自宅が蔵の壁だけを残し、焼け落ちました。
佐々木文助さん 「90年だぞ、90年になるんだぞ」
大船渡市は10日、すべての避難指示を解除しましたが、いまだ鎮火には至っていません。
11日朝も佐々木さんの姿は自宅の前に…。
佐々木文助さん 「震災も14年、きょうで。震災当時から商売もどうにか地域のおかげでやってこられた。頑張るしかねぇなと思っています」
■親友との“約束”夢をかなえる
被災した自治体のなかで最も多い犠牲者が出た石巻市。
高橋輝良々さん(21)には震災で亡くした親友との約束がありました。
14年前、当時小学1年生だった高橋さんは先生や他の児童と一緒に高台に避難しましたが、先に下校した児童7人は犠牲になり、高橋さんの親友もそのなかにいました。
現在は震災遺構になっている「門脇小学校」。
震災で親友を亡くす高橋輝良々さん 「(Q.2人のイラストが描かれている?)仲良くしてくれた友達に渡すカードみたいなものを書く授業があった。震災がなければ多分、また次の週の授業で渡せたかもしれない、渡せなかった」
ここで2人はある約束をしました。
高橋輝良々さん 「私が『小学校の先生になりたい』っていう夢を友人に話した時に『私もなりたいと思ってたよ、一緒になろう』っていうふうに言ってくれて。初めて、お互い将来の夢について話したので」
それから高橋さんの夢は変わらず「教師」です。親友に宛て毎年、書いている手紙。
高橋輝良々さん 「(Q.書き出しが『久しぶりだね』というふうに書くところから始まってますが?)ずっと同じ書き出しで『久しぶりだね』って声を掛けて…」
不安をつづることも。
高橋輝良々さん 「去年の手紙は『語り部を初めてやってみたよ』と報告をしてて…なんか語り部をすることの不安だったりとか…」
高橋さんはこれまで手紙は手放していましたが、去年から残しています。それは当時の校長の言葉がきっかけ。
高橋輝良々さん 「今までの手紙を自分で捨ててしまっていたことを(校長に)お話ししたら、その思いや子どもたちにこれから伝えていける『命を守るために必要な、本当に大切なあなたの思いなんだから、取っておきなさい』というふうに声を掛けていただいて…」
そして、今年は特別な手紙になりました。
親友への手紙 「今年は嬉しい報告、喜んでくれたらいいなと思っている報告があります。12月に、宮城県の教員採用試験を受けて、無事に合格することができました。あの時、一緒に先生になろうと言ってくれて、本当にありがとう。同じ夢を持てたこと、今でも笑顔になってしまうくらい大切な宝物です」
そして11日、高橋さんは…。
高橋輝良々さん 「私が先生方に命を守ってもらって支援をいただいて生活してきたように、命の大切さを伝えられる教員になろうと思っています」