2025年、岡山県瀬戸内市で1人の女性が82年の生涯を閉じました。困難に直面しながらも、アーティストとして「それでも生きた」女性の作品に注目が高まっています。
10代の少女が描いたのは、真っ暗な「海」。わずかな色と砂を使って、闇の中に浮かび上がる水平線や波、雲などを表現しています。
「昼」と「夜」の風景を表現した、ユニークなセーター「午後の情景」「夜の情景」。生活のために習得した編み物でも、才能を発揮しました。
2025年12月、82歳でこの世を去った加藤博子さん。亡くなる直前まで自身の表現を追求し続けた「アーティスト」です。
戦後の過酷な時代にハンセン病を発症 いわれのない差別・偏見
2026年5月、博子さんの作品展が開かれたのは、東京にある国立ハンセン病資料館です。
(国立ハンセン病資料館/吉國元 学芸員)
「アジア・太平洋戦争における日本の戦局が非常に悪化した時期にお生まれになって、戦争の過酷な時期にハンセン病を発症して、その時に父親は一家心中を考えたほどだったと彼女は回想しています。手足の知覚神経麻痺、手足から痛みや冷たさ、熱さの感覚が分からなくなる、そういった症状が出てやけどばかりしていたと語っています」
ハンセン病は感染力が非常に弱い病気で、戦後には治療法も確立されました。
しかし、国が1996年まで続けた強制隔離政策によって、入所者は家族との別れを余儀なくされ、いわれのない差別・偏見に苦しんだのです。
博子さんは1955年、わずか12歳で家族のもとを離れ、静岡の国立ハンセン病所、駿河療養所に入所しました。
(国立ハンセン病資料館/吉國元 学芸員)
「隔離政策によって、人間として否定される経験であった。自分の存在を証明していくものとして絵画や編み物がある。彼女は入所した時から、高校時代、社会復帰している間、再入所後も、表現することを止めなかったんです」
「強制隔離の象徴」を絵に
瀬戸内市にある、長島愛生園。博子さんは全国で唯一、入所者のために設置された「邑久高校新良田教室」で青春時代を過ごしました。
この頃から本格的に絵を描き始め、園内の美術クラブやさまざまな作品展などで、評価されていました。
(博子さんに美術を指導/三宅洋介さん)
「油絵を描くのに絵の具が必要で、園には売っていないので、バーミリオン(赤)を買ってきて、ホワイトを買ってきてとか言って、彼女はお金を渡すんです。それで絵の具を買ってきて、その絵の具で彼女は作品を描いていた」
博子さんが三宅さんに声を掛け、ゴッホやセザンヌなどの画家について議論をしたことや、自身が描いた「海」の絵を見せに来たこともあったといいます。
(博子さんに美術を指導/三宅洋介さん)
「本当に波だけなんです。重々しく描かれていたので、びっくりしました。これは彼女の心象風景、海に託して描いたんだなと。それで自分の気持ちを表現できる。そういう才能のある子だった」
療養所の中と外を隔てる「海」。入所者にとって「強制隔離」の象徴ともいえる風景を、博子さんは繰り返し描いていたといいます。
「海」は、岡山県最大規模の公募展「岡山県美術展覧会」で、入選を果たしました。
(国立ハンセン病資料館/吉國元 学芸員)
「隔離が続いている中で、自分自身は閉じ込められているけど、絵自体は社会に認められて、外で展示をしてもらえるということで、美術展の入選は非常に励みになった」
「一生懸命にそれはもの凄く、一生懸命に生きたのである。高校二年のある夜、そっと試しに海の中に少しだけ入ってみた。死にたくても死ねなかった。辛くても、絵の可能性に向かって生きてみよう、描いてみようとした。絵に向かい、絵に助けられて、生きたのである」(博子さんの随筆「再び戻る」より)
社会復帰後も明かせない病歴
卒業後、駿河療養所に戻った博子さんは、入所者の男性と結婚し、療養所の外で生活する「社会復帰」の道を選びます。
(国立ハンセン病資料館/吉國元 学芸員)
「1949年ごろにプロミンという治療薬が導入されて、ハンセン病が治るようになった。園の外に出て生活する「社会復帰」が可能になった時代なんですね。この2つの絵は、彼女が社会復帰する直前の絵になるわけですが、そういった人生の流れが急展開していく、勢いのようなものが描かれているように感じます。一方で、そこでとどまろうとしている岩の存在も非常に印象深く、それが隔離下であったということ、偏見・差別によるものですが、社会復帰は手放しに素晴らしかったわけではなく、自分の病歴を隠しながら生きなければならなかった」
生計を立てるために、博子さんが習得したのが、「編み物」です。
編み方やデザインなどを研究して記録した見本帳には、途方もない時間と努力を費やしたことがうかがえます。自ら編み物教室を開き、雑誌に作品が掲載されるなど、絵で培った才能を存分に発揮しました。
しかし、その実力が社会で認められてもなお、自分がハンセン病の元患者であることは明かせませんでした。
社会復帰のために、一度は美術の道を諦めた博子さんでしたが、再入所をきっかけに再び絵を描き始めます。
(国立ハンセン病資料館/吉國元 学芸員)
「夫の健さんの健康状態が悪化して、彼のせきの発作(ぜんそく)が深刻になってくるんですよね。そこでこれ以上自分たちの病歴を隠すわけにはいかないということで再入所を余儀なくされたんです」
博子さんは絵以外にも、文芸やデザインなど多彩な創作活動に励みました。
1998年、ハンセン病の元患者が、強制隔離政策は憲法に違反するとして、損害賠償を求める裁判を起こしました。
原告の1人だった博子さんは、2001年に国が控訴を断念し、勝訴した時の思いをこうつづっています。
「翌朝になって涙が滲み、身体がふっと軽くなった。私にも人権があったのだと」
2009年には、生前最初で最後となる個展を開催。夫の死後、「邑久光明園」に転園し、2025年亡くなりました。
「絵があったから生きてこられたんだ」
7月、学芸員らがその遺志を引き継ぎ、作品展の準備を進めていました。
(邑久光明園社会交流会館/キムラ タダシ学芸員)
「ずっと自分の展覧会をもう一度やりたいとおっしゃっていた。絶対に手を抜かない最後まで自分の作品をまとめてこれには価値があると言い続けていた。孤独感を感じている人、苦しいと思っている人に対して寄り添いたいという気持ちがすごく強くある方だったので、生きるのがしんどいと思っている人にぜひ見てもらいたい」
写真家でギャラリーのオーナー、山口聡一郎さんは、一度は閉館したギャラリーを、特別に再開することにしました。
(ギャラリー722/山口聡一郎オーナー)
「半年ほど前に亡くなったということで、もしその時に展示をやっていたら、生きている時にできたというのがあって、非常に残念で。加藤さんのためだけに再開しようと」
博子さんは生前、自身のあらゆる作品や資料をまとめ、「それでも生きた」とタイトルを付けていたそうです。
(邑久光明園/青木美憲 園長)
「作品や資料を通じて、自分がどういうものかをしっかりと研究して、同じような過ちをこの社会が繰り返さないように、二度と自分と同じようなつらい思いをする人がいない社会にしてほしいという願いがあったからだと思います。おっしゃっていたのが『絵があったから生きてこられたんだ』と」
5日始まった「加藤博子展 それでも生きた」。子どもの頃の思い出、苦悩や葛藤、アイデアや探究心。「それでも生きた」アーティストの豊かな表現に触れることができます。
一番乗りで作品を鑑賞したのは写真家で、美術展の企画などでも知られる能勢伊勢雄さんです。
(美術展企画・写真家/能勢伊勢雄さん)
「表現のスタイルを変えていっているというのが彼女の特徴。コンポジションの作品でも組み方によっては中心が暗くなって組み方を変えると外に光が向かうように組み合わせが可能だという4枚の作品。センスというか力を持っている人だと思いました。間違った日本の政策で隔離された人生を歩んだ人だからというふうに僕は見たくない。それを正当に評価することがすごく大事。たまたまハンセン病の元患者だったというだけのこと」
加藤博子さんの作品展は、岡山市東区のギャラリーで10月11日まで開かれています。
【加藤博子展-それでも生きた-】
10月11日まで
ギャラリー722 岡山市東区吉井208
午前10時~午後5時
※水・木・金と9月21日(月・祝)~25日(金)までは休館
加藤博子さんの作品
画面左「untitled」(1955年)
国立駿河療養所に入所し、図画の授業で描いた風景画。療養所から見える富士山や入所者の寮、うさぎ小屋など身近な風景を描いている。
「私が横むきわざとこしらえた顔」(1950年代後半)
12歳頃に描いた自画像で、明るい背景とこちらを見つめる表情が印象的。身に着けているのは、入所する時に持ってきた半そでのブラウスだという。
「冬の温室ガラス屋根」(1962年)
長島愛生園の新良田教室に在学し、本格的に油絵を描き始めた頃の作品。女子寮の窓から見える温室のガラス屋根を真上から描いたもの。
「untitled(目を閉じている人と頬にキスをする人)」(1989年)
画面右側が博子さん、左側が博子さんのパートナー、加藤健さんであるとみられる。健さんは長年「蓮」を撮影していて、博子さんはその写真集の編集も手掛けた。
「色のコンポジション(Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ・Ⅳ)」(2000年代)
自由に組み合わせることによって、印象ががらりと変わる4枚の絵。会場では博子さんが提示した組み合わせで展示している。
「森の動物たち(Ⅰ・Ⅱ)」(2000年代)
抽象画のように見えるが、博子さんは「私の絵はすべて具象画、抽象画ではない」としていて、タイトルからもさまざまな想像を巡らせることができる。
「対話」(2008年)
幾何学的で全体的に暗さを感じる色使い。「対話」のタイトルから、2人の人間が向き合っているような様子も浮かび上がる。
(2026年9月7日放送「News Park KSB」より)