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太平洋戦争“始まり”は真珠湾攻撃の2時間前…歴史の波に消えた“開戦の地”コタバル

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1941年12月8日は、太平洋戦争が始まった日です。旧日本軍がアメリカ・真珠湾を奇襲したことで太平洋戦争は始まったと思う人も多いのではないでしょうか。しかし、その約2時間前に戦闘は始まっていました。

■歴史の波に消えた“開戦の地”

1941年12月8日、太平洋戦争の始まりとして記憶するのは、ハワイ・真珠湾への攻撃。始まったのは日本時間午前3時19分。ところが、当時の閣議決定では異なる開戦時刻が記されていました。

国立公文書館所蔵『今次戦争ノ呼称並ニ平戦時ノ分界時期等ニ関スル件』 「平時、戦時ノ分解時期ハ午前1時30分トス」

真珠湾攻撃の約2時間前、日本はすでに戦争へと突入していたのです。その場所は、ハワイ・真珠湾から1万キロ以上離れた東南アジア・マレーシア。その北東部に位置するコタバルです。当時、イギリスの植民地だったこの地に、日本軍が上陸。ここが“最初の戦場”でした。

日本ニュース 「舳艫(じくろ)相銜(あいふく)んで、マレー攻略の雄図も堅く、波を蹴り、豪壮果敢なる敵前上陸は開始されたのであります」

ザフラニ・アリフィンさん(54)は、マレーシアの歴史研究団体に所属し、日本軍によるコタバル上陸の実態を研究してきました。

ザフラニ・アリフィンさん 「日本軍が上陸した時、水分補給のためにココナツから水分を飲まなければならなかった。一面にあるココナツの実を地元の人に採らせて全部奪った。もともと大変な生活だったのに(日本軍の)占領後はもっと大変になった」

街には、日本軍が上陸してきた歴史を伝える博物館があります。その絵には銃弾が飛び交う中、有刺鉄線を切り抜け上陸する日本軍の姿が描かれていました。それはコタバルの住民にとって忘れがたい記憶そのもの。

コタバルの住民 「日本軍はあっちの浜辺から上陸してきた。村では穴を掘って皆で隠れた。頭上を弾が飛んでいて怖かった。だから穴を掘ったと聞いている」

日本軍はコタバル上陸からわずか2カ月で“貿易拠点”シンガポールを陥落。戦争を継続するために必要な東南アジアの豊富な資源を手にすることにつながりました。

なぜ日本人はコタバルでの戦いを忘れてしまったのか。その理由は開戦翌日の新聞にありました。一面を飾ったのは真珠湾攻撃の華々しい戦果。当時の報道について、日本やアメリカの情報政策などを研究する、賀茂道子氏は。

名古屋大学 賀茂道子特任准教授 「アメリカに石油を禁輸されて始まった、追い詰められた対米戦争という認識があったことに加えて、真珠湾攻撃は日本にとってはストーリー性があって痛快な話。ところがコタバルは、確かに戦闘行為はあったけれど、認識の差としては圧倒的に印象度というか真珠湾攻撃の方が大きい」

■GHQの影響…消えたコタバル

さらに戦後、コタバルは歴史の陰に隠れることになります。そのきっかけの1つに『ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム』、日本人に戦争の罪を理解させるという、GHQの情報計画がありました。

GHQが注目したのは、日本人の戦争に対する認識。戦時中の日本では戦果ばかりが強調されていたため、敗戦に至る経緯などの実情は国民に知らされていませんでした。

名古屋大学 賀茂道子特任准教授 「どうして負けたのかということも知らず(日本が)戦争に負けたのは『科学が劣っていた』『原爆投下』という語りがされていたので、これを放置しておけば再び侵略戦争を起こすのではないかとGHQが感じた」

この認識を改めるため、GHQは日本の新聞やラジオなどを検閲。それと並行して行ったのが、学校で扱う歴史教育の見直しです。

GHQ内で示された方針 「日本の教育制度のあらゆる要素から、軍事訓練を含めた教義上および実践上の軍国主義と超国家主義を排除すること」

こうしたGHQの方針を受け、当時の文部省が独自の判断で指示したのが、いわゆる教科書の墨塗りです。ある教科書では「わが輸送船団はマライ半島のコタバルをめざして進んで行った。兵士が歯を食いしばって応戦する」という記述も墨塗りに。コタバルという地名は消えていきました。

さらに、太平洋戦争の開戦をめぐる教科書の内容も戦後、GHQ、つまりアメリカの影響を受けて大きく変わります。

戦時中の教科書 「開戦劈頭(へきとう)、ハワイ及びマレー沖の海戦に、堂々米国の太平洋艦隊、英国の東洋艦隊の主力を撃滅し、我が陸海軍の戦果には、世界戦史上類なきものがある」

戦時中の教科書に書かれている開戦の地はハワイ及びマレー沖。しかし、終戦後は。

戦後の教科書 「わが艦載機が宣戦布告に先立って、無警告に真珠湾を攻撃し、ここに戦いがはじまった」

アメリカにとって許しがたい真珠湾が開戦の始まりとして強調されたのです。

名古屋大学 賀茂道子特任准教授 「占領(統治)を行ったのはアメリカですので、アメリカとの戦闘行為を中心に語られましたが、もしイギリスが占領(統治)を行っていれば、東南アジアの戦闘行為ももう少し情報発信された可能性はあります」

■家族に伝わる 日本兵の記憶

アメリカ主導の戦後政策の中で、真珠湾攻撃の陰に埋もれていった始まりの地・コタバル。ただ、その戦いで傷付いた日本兵がいるのも、また事実です。

父がコタバル上陸作戦に参加 藤吉敬司さん 「こちらの写真がコタバルに上陸する前の集合写真」

コタバル上陸部隊に所属していた、藤吉静香さん。上陸した瞬間の思いを息子の敬司さんに語っていました。

父がコタバル上陸作戦に参加 藤吉敬司さん 「生前聞いているのは、上陸する時に『南無阿弥陀仏』と言いながら上陸した話を聞いております。どんどん撃ってくるから、戦友たちがそこで何人もやられたと」

記録によると、日本軍の犠牲者は320人に上ったと書かれています。

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