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【特集】未来の子どもたちへ 教育で戦争の記憶をつなぐ教員志望の大学院生 香川・三豊市

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 香川県三豊市詫間町にはかつて海軍航空隊の基地がありました。ここからは特攻隊も飛びたち57人の尊い命が失われましたが、その記憶が薄れつつあります。終戦から80年が経ち、今後、戦争を経験した人がいない時代になっても子どもたちに平和の大切さを語り継いでいこうと奮闘する教員志望の大学院生を取材しました。

(山下佳乃)
「ここはどんな場所ですか?」
(香川大学大学院 教育学研究科3年/勝部雛子さん)
「ここは実際に当時、約80年前に詫間海軍航空隊という航空隊が置かれていて、実際に特別攻撃隊が飛びたっていた場所です。あまりここって知られている方が少ない。私の世代だったら知っている人も少なくて……」

 香川大学大学院教育学研究科3年、勝部雛子さん。2026年春から香川県で小学校の教諭になる予定です。

 教育を通して子どもたちに戦争の悲惨さや平和の大切さを伝えたい……勝部さんが教育の題材にするのが、三豊市詫間町の「詫間海軍航空隊」の跡地です。

(香川大学大学院 教育学研究科3年/勝部雛子さん)
「私たちの身近な町でも戦争が起こっていたということを伝えていく必要があるかなと、これから伝えていきたいなと思っています」

 「詫間海軍航空隊」は第2次世界大戦末期の昭和18年、1943年6月に設置されました。海に面した立地を生かし、当初は水上機の飛行訓練を行っていましたが、その後の戦局の変化から沖縄戦に備えて飛行艇の一大基地となりました。

 そして昭和20年、1945年の4月から終戦までの4カ月間、ここから特攻隊が戦地へ飛び立ち、57人の尊い命が失われました。

 三豊市のお隣、観音寺市で生まれ育った勝部さんがこの基地のことを知ったのは、小学生の頃でした。

(香川大学大学院 教育学研究科3年/勝部雛子さん)
「なぜか分からないんですけど興味・関心がずっとあって、大学の時に近現代史の勉強をしていたので、その時にここについて改めて調べてみよう、研究しようと思って」

 進学した京都の大学で日本史を学ぶ中、「詫間海軍航空隊」と地元の人の関わり、それが人々にどのような影響をもたらしたのかについて研究を続けました。

 そして今、教師の卵として地元の大学院で学びながら、子どもたちに詫間海軍航空隊の歴史を伝える授業の内容を考えています。

 「戦争を経験していない自分がどうすれば子どもたちにも戦争を自分事として考えてもらうことができるか」。勝部さんがたどり着いたのが……

(香川大学大学院 教育学研究科3年/勝部雛子さん)
「実際の当時の資料として、遺書を使おうと思っていて、矢野弘一さん、この人の遺書を元に授業を進めていこうかなと考えています」

 勝部さんと同じ、観音寺市出身の矢野弘一さん。特攻隊として沖縄周辺の敵艦に体当たりし、23歳で亡くなりました。

 戦死後、両親と妹宛てに書かれた遺書が詫間海軍航空隊から実家に届きました。

(矢野弘一さんの遺書)
「父上様、母上様。にっこり笑って突っ込む、私の姿を思い浮かべてください」

(香川大学大学院 教育学研究科3年/勝部雛子さん)
「実際に突っ込むってなったらにっこり笑えないじゃないですか。ここに書いていることが全てではない。ということをこの遺書からは読み取らせたくて」

 実際にこの遺書を使って2025年1月坂出市の中学3年生に向けて授業を行ったところ、「これは本音を書いていないと思う」「書かざるを得ない状況だったと思う」という意見が出たそうです。

(香川大学大学院 教育学研究科3年/勝部雛子さん)
「選択の余地がない(特攻隊になる)意思決定をせざるを得ない状況だった。そういうような社会を作ってはいけないということを認識、気づいてもらって、そこからそういう社会にならないために私たちはどういう風に行動していけばいいかなっていうのを考えてもらえるような授業にしました」

 こうした授業を通して、子どもたちに戦争の悲惨さと平和の尊さを実感してもらうことができると勝部さんは考えます。

 そんな勝部さんが、詫間海軍航空隊の生き証人として話を聞いている人がいます。

(峰久光正さん)
「(Q.今おいくつですか?)93歳です。もうすぐ94歳になります」

 三豊市詫間町に住む峰久光正さん。子どものころに詫間で経験した戦争の記憶を講演や著作物を通して語り継いでいます。

(峰久光正さん)
「(Q.勝部さんの存在についてはどう思われますか?)大事な人やと思います。今から教える人がまた教える人をちゃんと教えて、教える人を教えて、その人がまた2世3世に教えていかないかん」

 KSBは12年前、82歳だった峰久さんを取材していました。

(峰久光正さん[当時82歳])
「年とり過ぎましたな、悲惨ですわ。それを伝えて繰り返してはいけないということを訴えるのが私らの努めやと思いますわ」

 長い月日がたっても峰久さんの思いは変わりません。

(峰久光正さん)
「命を永らえるのは天命やと思っております。やっぱりお前は残って言えよと神様が指導してくれるのやと私は思います」

 戦争の記憶を伝えていくために……戦争を直接知る人から話を聞けるのは、今の時代を生きる私たちが最後かもしれません。

(香川大学大学院 教育学研究科3年/勝部雛子さん)
「伝えていくからこそ平和が守れるというか、そういう面があると思うので、語り継ぐことは絶対必要だと思っていて、私もその一人として町の戦争遺跡を伝えていける人になりたいなと思って……語り継いでいきたいです」

 未来の子どもたちに戦争の記憶をどうつないでいくのか。昭和から令和、戦争と平和の時代を生き抜いてきた「滑走路」が静かに語りかけています。

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