太平洋戦争の末期、太平洋の島国・パラオから命からがら帰還した倉敷市の男性がいます。壮絶な体験をした男性が今思うこととは。
イタリアの民謡「カンツォーネ」を高らかに歌い上げるのは倉敷市の田邉泉さん、89歳。
田邉さんは、1940年、政府機関の職員だった父の仕事の都合で当時、日本が統治していた太平洋の島国・パラオへ移住しました。
(田邉泉さん)
「しばらくは日本が勝ち進んでいたから平和だったんですね。それで昭和19年になったら空襲が始まる」
1944年3月末から住んでいた島は連日のように米軍の空襲を受けたといいます。田邉さんは当時7歳でした。
(田邉泉さん)
「私の子どもの(時の)記憶では、四角のロの字型の防空壕を掘ってる。向こうの方から飛行機の音が聞こえたら、こっち側に逃げる。こっちから来たら今度はこっちに逃げる。布団を頭に持って逃げたのを覚えてる。嫌でしたねあれは」
そして、1944年7月、日本に引き揚げるため船に乗り込みましたが……。
(田邉泉さん)
「もう海はもう戦場です。海出たら潜水艦にやられるかもしれないというので、緊張してますね。監視兵が見つけたら、すぐ警報が鳴るんですね。嫌な音でしたね。ブーンというようなブザーが鳴るんですよ。そうしたらみんな慌てて甲板に逃げます。もし魚雷をくらって船が転覆したら、海に投げ出されますから」
田邉さんは、船団を組んでいた他の船が夜中に魚雷攻撃を受けて沈んでいく様子をよく覚えています。
(田邉泉さん)
「魚雷をまともに受けると、いろんな沈み方があるんですけど、(海面に対して)まっすぐ垂直になることがあるんですよ。船の黒い影・シルエットと真っ赤な炎。それと水煙が上がる。子ども心に『うわきれい』と思って。(Q.自身の船には当たらなかった?)うん。奇跡中の奇跡ですね」
田邉さんは、軍艦や貨物船を乗り継ぎ、パラオからフィリピン、そして台湾を経由して日本へ。魚雷攻撃は何とか避けるも空襲を受け、エンジンが止まり一時航行不能になることもありました。72日間の決死の帰還でした。
(田邉泉さん)
「(日本の)陸地に上がってから、もう爆発ですね気持ちが。父の日記なんか見ると、もう大丈夫。もう魚雷にやられる心配ないぞと地面を叩いて泣き叫ぶ人とか、万歳いう人とか、抱き合う人とか、歓喜のるつぼですね」
田邉さんは父が残した日記を基に自らの体験を小説にまとめ、2019年に出版しました。日本に辿り着いた1944年9月30日、父は日記にこう書いていました。
「九死に一生を得て 一家祖国に上陸 感激感謝の念に絶えむ」
(田邉泉さん)
「日常の素晴らしさに気付いてほしい。平和な暮らし。それを守るためには、自分は何ができるか。平和がいいに決まってる。それに尽きますね」