ミラノ・コルティナオリンピック、スノーボード・ビッグエア男子で金メダルを獲得した岡山市出身の木村葵来選手。夢をかなえたその先へ。歴史に名を刻んだスノーボーダーの挑戦は続きます。
岡山県出身者として初めての冬季オリンピック金メダリストとなった、木村葵来。方々からのお祝いや、取材ラッシュと、地元・岡山市に戻ってからもあわただしい日々を過ごしています。
(父・友浩さん)
「やっぱりああやって、いろんな人にかけてあげるのがええんやろうな、メダルって」
県民栄誉賞の授与式があった3月4日夜。帰国後初めて、家で両親との食事です。
(木村葵来 選手)
「(Q.お母さんの料理久しぶりですか)めっちゃ久しぶりです。2、3カ月ぶりぐらい。いつもの味ですね(笑)」
(父・友浩さん)
「次のオリンピックは忘れ物を取りに行かんといけんのかな、スロープでの」
スロープスタイルでは惜しくも予選落ちとなった木村。それでも、ビッグエアでは日本人初の金メダルと、堂々の結果を残しました。
プレッシャーのかかる場面でも「いつも通り」
オリンピック中、印象的だったのはきらきら輝く笑顔。カメラが向くと、決まってサービス。
(木村葵来 選手)
「まあアピールというか、分かりやすいじゃないですか。顔が隠れているんでみんな。あ、あの人だみたいな」
(父・友浩さん)
「(Q.親も安心しますよね)いつも通りなんだろうなってね」
(木村葵来 選手)
「(Q.緊張とかしない?)します」
(父・友浩さん)
「それも含めてのいつも通りというところをやってるのかな」
その「いつも通り」が表れていたのがビッグエア決勝、金メダルを決めた最終3本目のジャンプ前。2本目で失敗し、後がなくなったプレッシャーのかかる場面でしたが……
「練習も兼ねてやるか~」
(木村葵来 選手)
「言ったのは覚えてます。う~ん、どんな感じだったんだろうな、あの時は。2本目で出た失敗を3本目でちゃんと修正することができればいいかなというふうに考えてはいました。(Q.気負わずにみたいな意味も?)そうなんだと思いますね。(Q.自然に出た?)だと思います」
両親のサポートに「感謝しかない」
今シーズンが始まる前、木村は通っていた愛知県の中京大学を2025年の春に休学し、岡山の実家へ戻っていました。
(木村葵来 選手・2025年8月)
「もっと集中してスノーボードをやらないといけないというのもあって。僕、免許持っていなくて移動が大変なので、親に送迎してもらってというのはありがたいので、そういう環境含めてここを拠点にして」
子どものころからの夢であるオリンピックを見据え、家族のサポートや慣れ親しんだ練習施設を使える岡山の実家に拠点を移し、トレーニングに励んできました。
(木村葵来 選手)
「たくさんの人間関係が築けた状態でもあったので、トレーニング環境が良かったのでよりスノーボードに集中できたり、費やす時間が増えたし、楽しかったですし。この関係を大事にしたままこの先もどんどん頑張っていきたいと考えています」
両親は、子どものころから関西や東海地方を中心に車で全国に送迎しサポートしてきました。
(木村葵来 選手)
「毎週土日にいつも夜な夜な車で(県外の施設に)移動してくれていたんで、僕は寝ているだけですけど、そういうサポートのおかげで今の自分があるんだと思っているので感謝しかないです」
記者「しばらくは忙しいから(親に)何かしてあげるのも難しそうだね」
葵来選手「そうですね落ち着いたら……」
記者「何か考えていることあるの?」
葵来選手「ないです(笑)」
葵来選手「希望や夢を与える存在に」
「晴れの国」から生まれた雪山の王者。
(木村葵来 選手・2019年のインタビュー)
「板がはけて滑るっていうことが自分の中で大好きなので、はよ練習行きたいんじゃーみたいな感じで学校行ってます。(Q.夢は?)オリンピックに出て優勝したり、世界の大会で戦っていって世界トップに立つことです」
スノーボードが大好きな少年は子どもの頃からの夢をかなえ、次の一歩を踏みだします。
(木村葵来 選手)
「僕がこの競技を始めたのもソチオリンピックのスロープスタイルを見て競技をやり始めたので。次は僕側からスノーボードのスロープスタイルやビッグエアという競技をもっと広めて、さらに興味を持ってもらうように活動していって、夢に向かってスノーボードをやってくれる子どもたちが増えてくれたらいいなっていうふうに、僕はみんなに希望や夢を与える存在になりたいなと思っています」