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【特集】震災で故郷を離れ…避難者の10年 過去を背負いながら踏み出す一歩 岡山

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 2021年3月11日で東日本大震災から10年。福島第一原発事故をきっかけに岡山県に避難してきた人たちの姿をお伝えします。

 「避難」という道を選ばざるを得なかった人たちにとってこの10年はどんな時間だったのでしょうか。

帰りたいけど帰れない…「ずっと重たいものを背負ってる感じ」

 3月7日、東日本大震災の犠牲者を追悼する会が岡山市で開かれました。

(福島から高梁市に避難/土屋暢樹さん[55])
「原発のことを考えた時に、10年経って何も解決してないものは20年経っても解決できないだろうし、子どもの代になっても解決できないだろうな」

 こう話すのは土屋暢樹さん、55歳。
 土屋さんは福島第一原発事故が起きた後、放射線による健康被害を恐れ、福島県白河市から母と妻、3人の子どもと岡山県高梁市に自主避難しました。2011年7月から高梁市の市営住宅で暮らしています。

 土屋さんのふるさと白河市は福島第一原発から約80キロ。
 国が定めた自主避難者に対する賠償範囲、自主的避難等対象区域から外れていたため、土屋さんはほとんど補償を受けられていません。

 それでもいつか帰る日のために、福島の自宅の電気や水道の料金を払い続け、管理を続けています。

(土屋天成さん[当時10歳])
「(Q.こっちの学校はどう?)楽しいです」

 2014年に取材したとき、土屋さんの長男・天成さんは10歳でした。この春に高校2年生になります。

 掃除などのため福島の自宅に戻るたび、町の景色だけが変わっていっていると感じるそうです。

(福島から高梁市に避難/土屋天成さん[17])
「(家は)時間が止まったまま、小学校2年生の時に扱ってたおもちゃとか、漢字検定の10年前のやつがあった。福島の家が恋しい。父に帰らないかって言ったことがあるけど却下されちゃって」

(福島から高梁市に避難/土屋暢樹さん[55])
「原子力緊急事態宣言が解除されたわけでもないし、きちんとしたレベルでこうなったからというものがないと帰ることは多分できない。ずっと重たいものを背負ってる感じ」

 土屋暢樹さんは7年前、福島から岡山に避難した人たちと一緒に岡山地裁に訴えを起こしました。
 訴えによると、津波対策の不備で原発事故が起き避難のために精神的苦痛を受けたとして、国と東京電力に対して原告1人当たり約1100万円の損害賠償を求めています。

 2021年1月から、原告42世帯、107人の代表に事情を聞く原告本人尋問が行われていて、土屋さんも法廷で自身の状況を話す予定です。

(福島から高梁市に避難/土屋暢樹さん[55])
「解決しないといけない問題なので、こういう目にあって、こういう苦労をしてるというのをきちっと話したいと思っている」

震災から10年が経ち役目を終えた場所も―

 福島第一原発事故による健康被害に不安を抱え自主避難してきた母親と子どもを受け入れるシェアハウス。近所の牧師・延藤好英さん(64)が9年間運営してきました。

(シェアハウスを運営/延藤好英さん[64])
「お母さんの声、子どもの声、声がいっぱいでしたね。(Q.寂しいですか?)自分で思ってるより寂しくなっちゃって」

 岡山県和気町衣笠にある母子避難専用のシェアハウス「やすらぎの泉」は2011年7月の運営開始後、約180組が利用しました。一度に最大10世帯を受け入れたこともあり、利用がきっかけで岡山に移住した人も少なくありません。

 しかし、徐々に利用者が減り運営資金が賄えなくなったため、2020年6月にシェアハウスとしての役目を終えました。

(シェアハウスを運営/延藤好英さん[64])
「ここで出会わなかったら出会うことなかった人たち、いろんな出会いがあったなと思う」

シェアハウスを利用して移住した女性

 吉永由加里さん(53)も「やすらぎの泉」を利用して岡山県和気町に移住した1人です。

(母子で和気町に移住/吉永由加里さん[53])
「(やすらぎの泉を出る時)お布団とか皆で整理して、あの時が一番寂しかった」

 吉永さんは東京に夫を残し、2012年7月に当時6歳と3歳の子どもを連れて和気町に避難しました。

(母子で和気町に移住/吉永由加里さん[2013年当時])
「下の子は甲状腺低下症を持っているのと、上の子は夏休み明けに小学校に行ったら3日連続鼻血を出した。それでもう私はこの状況には耐えられないって話して、主人もそれを理解してくれて」

 和気町に移住してから子どもたちの体調も良くなりました。夫は現在大阪に単身赴任していて、母と子3人の暮らしが続いています。

(母子で和気町に移住/吉永由加里さん[53])
「地域の方に見守りながら育ててもらった。あのまま東京にいて『あれもだめ、これもだめ』って自分も不安を抱えながら暮らしていたらどうなっていたかなって、最近思うことがある。将来的に(原発の)影響は来ないんだろうか、そういう不安は10年経った今でも消えていない。先月の地震で福島第一原発の状況に不安を抱えているお母さんもいるので」

移住に踏み切れなかった人たちへ支援

 吉永さんは、移住に踏み切れなかった人たちに安心安全なものを食べてもらいたいと、7年前から地元の農家から野菜を買い付けて送っています。

 そして、2020年。子育てに余裕ができた吉永さんは、和気町に移住した母親たちを誘って野菜を育て始めました。

(母子で和気町に移住/吉永由加里さん)
「東日本大震災を経験してみて、ガス水道電気というライフラインが途絶えても暮らしていける、そういうシェア畑にしたいなと思って」

 育てた野菜は移住に踏み切れなかった人たちにも送っています。

(神奈川県から移住/佐野慶子さん)
「けっこう楽しくてハマってしまった。『おいしいおいしい』って言っていただけると励みになる」

(北海道から移住/椎原千穂さん)
「信じられるものを食べたい。子どももいますし、みんなそこらへんの気持ちは同じだと思う」

(畑でのやりとり)
カメラマン「5年前に会った時よりもすごく笑顔が絶えない気がするんですけど」
吉永さん
「そうですか?5年前も笑ってたような」
椎原さん「今ちょっといろいろ落ち着いてるんじゃないかな」
吉永さん「抱えてるものは変わらないけどね」
椎原さん「体力ついたんだよ、心の。いい言葉だ、心の体力」

(母子で和気町に移住/吉永由加里さん)
「震災は自分たちから見たらできればなくていいものだったけど、震災があったからこそ新しい生活があって、出会わなかった仲間たちに出会えた。環境と仲間に感謝、感謝でございます」

一歩を踏み出した親子

 福島から避難してきた土屋さん親子も、前を向くための一歩を踏み出しました。

 父、暢樹さんだけが登壇するはずだった追悼の会には長男の天成さんの姿が。

(福島から高梁市に避難/土屋天成さん[17])
「あの時、地震だけであれば僕はここにもいなかったし、全く別の性格の別の人物になっていただろうなと思って、何で僕らがこんなふうにならなきゃいけないんだろうみたいな」

 父、暢樹さんに見守られながら思いを吐き出します。

(福島から高梁市に避難/土屋天成さん[17])
「本来の日常はこうじゃなかった、原発問題、僕らの心の中にはみんなあると思う。続いている問題なので皆に知っておいてほしい」

(福島から高梁市に避難/土屋暢樹さん[55])
「彼も当事者なので誘ったんですけど、受けてもらえてよかった」

 ふるさとを離れ手探りで生きてきた避難者たちの10年。今も923人が岡山県で暮らしています。

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