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【特集】遺族がつなぐ「生きた証し」 ハンセン病強制隔離の記憶を後世へ 岡山

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 明治から平成にかけて、約90年もの間続いた、ハンセン病の強制隔離政策。感染力が非常に弱い病気にもかかわらず、患者とその家族は、いわれのない差別や偏見に苦しみました。
 今回初めて遺族に明かされた入所者の記録をきっかけに、その「生きた証し」を伝えようという動きが広がりを見せています。

(長島愛生園入所者の遺族/三好真由美さん)
「政石コメの写真です。ここに入った時の……裸でね、裸にされて、両腕で隠してね。悔しかっただろうと思いますね。こんな写真を撮られて」

 1940年、瀬戸内市の国立ハンセン病療養所「長島愛生園」に強制隔離され、半年後に自ら命を絶った政石コメさん。

 ひ孫の三好真由美さん(61)は、大叔父の死をきっかけに、14年もの間、コメさんの記録の開示を求めていました。

(長島愛生園入所者の遺族/三好真由美さん)
「コメ本人と息子の政石道夫の思いがかなったかなという、そんな気がしていましたね」

 コメさんの7番目の子どもで、三好さんの大叔父にあたる政石道夫さん。母親と同じハンセン病を患い、高松市の大島青松園に入所していました。

 三好さんにとっては、幼いころから交流を続けていた身近な存在だったといいます。

(長島愛生園入所者の遺族/三好真由美さん)
「母が『兄代わり、父代わり』と言っていたので、高松に住んでいるおじいちゃんだと思っていたんですね、子どもの頃は。大島青松園に遊びに行くのがとっても楽しみで」

 政石コメさんと道夫さんの故郷、愛媛県松野町。町の教育委員会は、ハンセン病問題をテーマにした人権教育に力を入れています。

 三好さん自身も、講演などを通じて道夫さんの体験や思いを伝え続けてきました。

(長島愛生園入所者の遺族/三好真由美さん)
「事実を目の当たりにすると身内としてはとてもつらいんですけど、皆さんに知っていただこうと思って、きょう持ってきました」

 この日行われた研修会で三好さんは、曾祖母・コメさんの記録が開示されたことを明かしました。

(長島愛生園入所者の遺族/三好真由美さん)
「曾祖母が、隔離されて自殺をしてお骨になって松野町に帰ってきたという話は知っていましたけど、解剖されていたという話はまったく聞いてなくて、私の母や大叔父や他の親族たちもこの事実は知らなかったのではないかと思います」

 コメさんが、解剖されていたという事実。

 開示された記録の中には、自ら命を絶つ7日前に書いたとされる解剖の同意書も残っていました。しかし、強制隔離政策の下で、適切な同意が得られていたかは分かっていません。

(長島愛生園入所者の遺族/三好真由美さん)
「1人でもたくさんの方々にこの事実を知っていただいて、こういうものは残さないといけない、負の歴史だけど残さないといけないということを知っていただきたい」

(松野町教育委員会/酒井節子さん)
「人格を無視されたような内容の記録だったので、衝撃ではありました。でも実際にそこから目を背けてはいけない。三好さんの話は、ぜひみんなに聞いてもらいたい」

 松野町では、「政石文庫」を設け、歌人・政石蒙としても活動していた道夫さんの作品や蔵書を公開しています。

 10代の頃、自分がハンセン病であると周囲に知られるのを恐れ、故郷を離れた道夫さん。当時の苦悩をこう振り返っていました。

(随筆「海-わが歴程-」より)
「私も母のようになってしまうのかと、自分の将来を見せつけられているようで恐ろしいのだ。家を出る朝、母はよろよろしながらも戸口まで出て見送ってくれた。それが母を見た最後である」

 コメさんはその後、長島愛生園に強制隔離され、わずか半年後に自ら命を絶ちました。

(随筆「海-わが歴程-」より)
「療養所へ送り込まれるとき、すでに死を覚悟していたようであった。自分の病気はそんな病気ではないと言い張ってきた母にとって死ぬよりも辛い療養所行だったのであろう」(原文ママ)

 母親の死後、道夫さんは病を隠して戦地へ赴きました。

(長島愛生園入所者の遺族/三好真由美さん)
「戦争で弾に当たって死のうと思ったらしいんですよ。英雄として死ねるので、でもすぐ終戦になっちゃって」

 敗戦後、捕虜になった道夫さんはハンセン病が発覚し、モンゴルで過酷な隔離生活を余儀なくされました。

(長島愛生園入所者の遺族/三好真由美さん)
「松野町に帰ってきてからも差別のことが恐ろしくて自殺を図ったんです、でも死にきれなくて、松野町で暮らすのはつらいからと言って自分で大島青松園に行くことを決めたそうです」

 強制隔離政策への憤りや悲しみ、家族への思いを短歌で表現し続けた道夫さん。自殺した母の無念を晴らしたいと、ハンセン病国家賠償請求訴訟の原告の1人として闘い、勝訴しました。

(長島愛生園入所者の遺族/三好真由美さん)
「政石道夫が生前よく言っていたんです。『この醜い体をさらしてでもハンセン病のこと、島のことを伝えんといかんのじゃ』って、『100歳まで生きるぞ』と言っていたんです」

 9月上旬、三好さんとともに松野町を訪れたのはアーティストの沢知恵さんと山川冬樹さんです。

 沢さんは歌手として、道夫さんが入所していた大島青松園で20年以上コンサートを続けています。

 そして山川さんは、瀬戸内国際芸術祭で道夫さんをテーマにした現代アートを制作しています。

 2人は長島愛生園でコンサートを開くにあたって、政石コメさんのことを紹介したいと考えていました。

(アーティスト/山川冬樹さん)
「政石さんのお母さんだけではないけれども、多くの無数の声をね」

(シンガー・ソングライター/沢知恵さん)
「何も残せなかった人の方が圧倒的に多いわけで、そういう人の声なき声を『私はここにいた』ということを表したい」

 10月8日、コンサートは長島愛生園の旧収容所を会場に開かれました。かつて、入所直後の人々が検査を受けた建物で、強制隔離の歴史を今に伝えています。

(シンガー・ソングライター/沢知恵さん)
「ここ長島で政石蒙の命の源なる政石コメへの鎮魂を込めて」

 山川さんと沢さんは、道夫さんがモンゴルで体験した隔離生活をつづった「花までの距離」を朗読しました。

 記録が開示されたことでくっきりと浮かび上がったコメさんの存在。一方で、長島愛生園には多くの入所者の「生きた証し」が、誰の目にも触れることなく残っています。

(長島愛生園入所者の遺族/三好真由美さん)
「なかったことにされたくないと思って。古い資料ですし、捨てられていたかもしれないし誰も思い出さなかったかもしれないし。1人でもいいんですよ。そういえば、うちにもそういう人がいたなって思い出してもらったら」

 11月4日土曜日、午後1時30分から放送のテレメンタリー「解剖録は語る」では、瀬戸内市の長島愛生園で見つかった解剖記録とその開示を求めた遺族の思いや活動をテーマにお伝えします。

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