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【特集】森永ヒ素ミルク中毒事件から70年 被害者が語る「僕の人生は何だったんだろう」 高松市

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 真ん中で半分に破かれた赤ちゃんの写真。破いたのは、お腹を痛めて産んだ、「母親」です。
(森永ヒ素ミルク中毒事件 被害者/石川宗二さん[71])
「僕の人生は何だったんだろうと思うもん。若い子にはちゃんと見てもらってこういうものを作らないようにしてほしい」
 70年前、生まれたばかりの子どもが犠牲になった「森永ヒ素ミルク中毒事件」。高松市で暮らす被害者が語る「思い」とは。

 高松市にある障害者支援施設「たまも園」。

 ここで50年近く暮らしている石川宗二さんは、1955年に起きた食品公害「森永ヒ素ミルク中毒事件」の被害者です。

(森永ヒ素ミルク中毒事件 被害者/石川宗二さん[71])
「母から聞いた話ですけど、まず吐いた。(粉ミルクを)飲むと同時に吐く、下痢、熱が出る」

 石川さんが口にしたのは、森永乳業徳島工場で製造された粉ミルク。食用に適さない質の悪い添加物が使われていて、その中に猛毒の「ヒ素」が混入していたのです。

 ずさんな安全管理によって西日本一帯の乳児に深刻な健康被害をもたらし、病院には患者が殺到しました。当時の被害者は1万2000人以上、このうち130人の幼い命が奪われました。

 石川さんは一命を取り止めたものの、成長とともにさまざまな体調不良や身体障害がみられるようになりました。

(森永ヒ素ミルク中毒事件 被害者/石川宗二さん[71])
「(自分が生まれる)前にお母さんは2人の子どもを身ごもったが、流産したり1週間で亡くなったりして、僕が3人目で元気な子だったらしいです。悲観して、僕を抱いて海へ入水した。僕が泣いたから海から上がったらしいです。自殺しようとしたらしいです」

 事件の被害者に重度の身体障害や知的障害を含む後遺症がある可能性が指摘されたのは、1969年。事件からわずか数カ月後、国が設置した第三者委員会で専門家らが「後遺症の心配はほとんどない」などと結論付けたため、被害者の健康被害は14年もの間、放置され続けていたのです。

(森永ヒ素ミルク中毒事件 被害者/石川宗二さん[71])
「8歳から12歳ぐらいまで心臓がえらくて(しんどくて)寝られなくて、お母さんを困らせていた。親は僕がもう長くないという感じでいたらしい。僕もこのまま苦しみながら死ぬんかなって、嫌やなって」

 石川さんは小学校にも中学校にも入学することができませんでした。周囲の人から投げかけられた「心ない言葉」を今もはっきりと覚えています。

(森永ヒ素ミルク中毒事件 被害者/石川宗二さん[71])
「幼稚園ぐらいの子とお母さんが歩いてきて、僕の方を見て『何で乳母車に乗ってるん?』ってお母さんに聞きよって、お母さんの答えが『あのお兄ちゃんは学校で勉強できないからああいうことをしとる』と。つらかったな、当時の障害者は。1時間ぐらいその場で泣いた。学校に行きたくても行けないし、家に帰ったけどお母さんには言えなかった。言ったらかわいそうやんか。それも含めて『くそっ!』ですわ。そういう気持ちで新聞、テレビ、ラジオ、お父さんが新聞を買って帰ってはさみで切り抜いて(独学で)勉強した」

 そんなわが子を見守り、寄り添い続けた母の政子さん。晩年を迎え、石川さんが元気だった頃の写真をほとんど捨ててしまったといいます。

 わずかに残ったのは半分に破かれた笑顔の写真。粉ミルクを飲ませた「自責の念」はいつまでも消えることはありませんでした。

 後遺症が明るみ出た後、森永乳業はすべての被害者を生涯にわたって救済することを約束しました。被害者団体、森永乳業、国の合意によって1974年に設立された「ひかり協会」が、今も被害者の救済事業に取り組んでいます。

 森永乳業は救済事業のための資金として年間約17億円を「ひかり協会」に提供しています。

(森永ヒ素ミルク中毒事件 被害者/石川宗二さん[71])
「森永乳業には恨みもないし、よくやってくれていると思う。反対する人もいるだろうけど、ひかり協会がやってくれるし、僕自身もやれることはやってきたつもりだし悔いはない」

 石川さんは今も被害者団体の香川県本部で役員を務め、事件と向き合い続けています。

 事件から70年。和歌山県の高野山で式典が開かれ、被害者団体、森永乳業、厚生労働省、ひかり協会の代表らが、亡くなった被害者を追悼しました。

 また、それぞれが協力し合って救済事業を最後までやり遂げることを誓いました。

(森永乳業/大貫陽一 社長)
「この事件を一生背負うべき十字架であると考え、責任を全うすることを重要な経営方針の中軸に据えてまいりました。二度と過ちを繰り返さないという強い決意を改めて胸に刻み全社を挙げて品質管理の徹底を図ってまいります」

(森永ひ素ミルク中毒の被害者を守る会/齋藤弘 常任理事)
「これまでに亡くなられた1797名の被害者のご冥福を心よりお祈り申し上げます。私たちは森永ヒ素ミルク中毒事件を風化させず、二度と同様の事件を起こさせないことを誓います」

(森永ひ素ミルク中毒の被害者を守る会/桑田正彦 理事長)
「この事件は二度とあってはならないことだし、後世の人にも身近なもの、絶対にあってはならないものとして記憶にとどめて、我々の生き様が将来、大切に遺産として残っていけばいい」

 被害者が70年を超えたいま、事件の記憶や教訓をどのように語り継いでいくかが課題となっています。

 そんな中2023年、岡山大学医学部でヒ素が混入した未開封の粉ミルク缶と患者のカルテが公開されました。粉ミルク缶は、1970年ごろに被害者の家族が提供したものです。

(森永ヒ素ミルク中毒事件 被害者/石川宗二さん[71])
「岡山大学医学部で2年前に缶が出た。何で今まで放置して中身を開けずに調べないでパッと出したんだと思う。僕は見たくない、思い出したら腹が立つから。ただ僕より若い人には見せておきたい。繰り返してほしくない、公害というものを理解して事故を起こすなと。起こしたら起こしたで、人間だから仕方ないけどやっぱりしまいまで面倒見てほしい。僕の人生何だったんだろうと思うもん。若い子にはちゃんと見てもらってこういうものを作らないようにしてほしい」

(2025年10月6日放送「News Park KSB」より)

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