終戦から81年。高松市の住宅街には戦争に対するさまざまな思いを持つ、空襲の遺族やその子どもたちが訪れる場所があります。
高松市中野町にある高松市戦災犠牲者慰霊堂「六角堂」。この場所を30年以上、毎朝掃除している人がいます。太田幸子さん。
(太田幸子さん[87])
「親が亡くなって、他の人もいっぱいね……1359名。気持ちだけお掃除してお守りしたいなという気持ちで毎日しているの」
「これだけの人が亡くなったんだからね。火の海だったんだから。この辺りは……あっという間だったけどね」
1945年7月4日未明。高松市はアメリカ軍の空襲を受けました。市街地の約8割が焼け1359人が犠牲になりました。
(太田幸子さん)
「7月3日が来たら思い出す。この辺真っ赤でね。人が逃げてたわ。一生懸命」
当時6歳だった太田さんも焼夷弾の破片で大けがをしましたが、かろうじて命をつなぎました。しかし両親は亡くなりました。
(太田幸子さん)
「おじおばに何不自由なく育ててもらったから、そうだと思ってお掃除でもしてお返ししようと思って……」
「(でもまあ)今までどうにかまともに生きてますから。いつまで動けるかわらからないけど、ここは一応お守りをして、お掃除を続けていきたいとは思います」
そんなこの場所に多くの人が集まる日があります。高松空襲の前日にあたる7月3日に犠牲者に祈りを捧げる追悼式が毎年行われています。
追悼式に毎年参列する髙木和子さん。
(髙木和子さん[87])
「一家10人亡くなりまして。私しか残っておりませんので、もう何年か前から私がお参りに参っております」
「姉一家は、このまっすぐ行ったところの六角堂から山へ上がりまして全滅しました」
この六角堂がある当たりで多くの人が犠牲になりました。
戦後いち早く犠牲者を供養するために地蔵を祀り、1958年に戦災犠牲者慰霊堂「六角堂」が建立されました。
遺族や空襲を経験した人が祈りを捧げてきた六角堂。終戦から81年が経ち戦争の記憶が薄れゆく中で、この場所を次の世代が守ろうとしています。
(水谷千種さん[72])
「母が思っていた思いをつなげていかないといけないという気持ちでいっぱいでした」
六角堂保存会の会長、水谷千種さん。戦後に生まれ、高松空襲を経験していません。
母や姉が務めてきた保存会の会長を2023年に引き継ぎました。
終戦直後、満州から高松に引き揚げてきた水谷さんの母が見たのは焼け野原になった高松の街だったそうです。
(水谷千種さん)
「この歳になって初めて母が一生懸命取り組んでいたことは、ほんとに世界平和を願う、戦争のないことを願っていたということがわかったので……」
そこに帰ってきたのは、長女の貴子さんと次女の仁美さん。娘たちも六角堂の保存活動に関わっています。
(長女・貴子さん)
「これからどんどんそういう経験した者が亡くなっていくはずだから、こういうことがあったということを覚えておきなさい、忘れないようにしなさいと言われてた」
(次女・仁美さん)
「振り返る場所でこういった戦争がまた起きないように改めて思い出させるきっかけを作る場所になるのかな」
戦後81年。焼け野原だった高松の街は、大きく姿を変えました。
(水谷千種さん)
「絶対残さなきゃいけない伝えたい場所です。高松に絶対残したい場所ですね。貴重な場所だと思っています。身近にこんなにみんなに平和の意味を伝える場所はないと思います」
「高松のちっちゃな平和を発信していくシンボルになってほしいなと思います」
六角堂は今日も、平和を願う人たちの思いとともに「いつもの街」の中にあります。
(2026年8月17日放送「News Park KSB」より)