今から68年前、乳児に大きな健康被害をもたらした「森永ヒ素ミルク事件」で、未開封の粉ミルク缶と患者のカルテが、岡山大学医学部に残っていることが分かりました。未開封の粉ミルク缶が確認されたのは全国でも初めてです。
高さ10cm、直径11cmほどの古びた缶。
(岡山大学医学部 医学資料室/木下浩 室長補佐)
「ヒ素が混入されていた粉ミルク缶は回収されて、実は中が入っているものは(これ以外に)残っていません」
「森永ヒ素ミルク事件」の被害者の家族から、岡山大学医学部が1970年頃に譲り受けて保管していた未開封の粉ミルク缶です。1955年5月に森永乳業の徳島工場で生産されたことが分かっています。
その頃、西日本の広い地域で乳児の皮膚が黒ずんだり、肝臓が腫れたりするなど、「原因不明の病」が続出していました。
岡山大学病院にも子どもを連れた親が殺到しました。この年の8月、岡山大学医学部は乳児の異常がヒ素中毒であることを初めて特定します。ずさんな安全管理によって、徳島工場では、粉ミルクの製造過程でヒ素が混入していたのです。
岡山大学病院を受診した最初の患者、生後8カ月の男児のカルテです。診察時には原因が分からないまま、約2週間後に死亡。粉ミルクに混入したヒ素によるものだと認められたのはその後でした。
被害者は1万2000人以上、このうち少なくとも130人がヒ素中毒で亡くなりました。これが「森永ヒ素ミルク事件」です。
原因不明の高熱や嘔吐で苦しむ息子に母親は粉ミルクを飲ませ続けた
岡山市に住む、被害者の菅野孝明さん(68)。
(森永ヒ素ミルク事件の被害者/菅野孝明さん)
「『元気になれ、元気になれ』と飲ませ続けた。そのミルクの中に毒が入っていた」
原因不明の高熱や嘔吐で苦しむ菅野さんを回復させたい一心で、母親は粉ミルクを飲ませ続けたそうです。
(森永ヒ素ミルク事件の被害者/菅野孝明さん)
「『なんてことをしたんだ』と、自分自身をすごく責めたようです」
菅野さんは3歳頃から重度のぜん息で入退院を繰り返しました。こうした被害者の体調不良がヒ素ミルクの後遺症だと明らかになり始めたのは、発生から14年も後のことです。
1970年頃、被害者の家族から未開封の缶を託された、岡山大学の太田武夫名誉教授(84)。当時は医学部の講師として、後遺症の追跡調査にも関わっていました。
(岡山大学/太田武夫 名誉教授)
「ヒ素が一体どのぐらい入っていたのか、もう一つはヒ素以外に何があったか、いつかもう一度検証しないといけない。その時に初めて開けるということで金庫にしまったわけです」
今もなお、被害者の救済事業が続く「森永ヒ素ミルク事件」。岡山大学医学部医学資料室では、17日からこれらの史料を一般公開します。