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【特集】森永ヒ素ミルク事件のいま 発生から68年…未開封のミルク缶を岡山大が全国初公開

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 1955年、乳児が飲む粉ミルクにヒ素が混入し、大きな健康被害をもたらした「森永ヒ素ミルク事件」。岡山県は被害者の数が特に多かったとされ、68年が経った今も、後遺症などに苦しむ人々の救済事業が続いています。そんな中、当時を物語る「新たな史料」が全国で初めて岡山大学医学部で公開されました。

未公開のミルク缶を岡山大学が公開

 岡山大学医学部、医学資料室。4月17日から公開が始まったのは、直径10cm、高さ11cmほどの古びた缶です。

(岡山大学医学部 医学資料室/木下浩 室長補佐)
「昭和30年(1955年)に起こった、森永ヒ素ミルク中毒事件の時に、実際に販売されていたミルク缶。ヒ素が混入されていたミルク缶というのは回収されて、実は中身が入っているものは(これ以外)残っていません」

 岡山大学医学部が1970年ごろ、被害者の家族から譲り受けて保管していた粉ミルク缶。未開封の缶が確認されたのは全国で初めてです。

 この事件の犠牲となったのは、生まれて間もない乳児でした。

(岡山大学医学部 医学資料室/木下浩 室長補佐)
「だいぶ昔の話だ、もう終わった事件だと思う方もいるかもしれません。でも現在でもその後遺症によって苦しんでいる方たち、被害に遭われた方たちがいらっしゃいます。それに対して新しい史料が出てきた。やはり皆さんに見ていただいて、今でも事件は終わっていない、今も続いているんだということを世に問う、そういった場にできればいいと思ってこういう企画をしました」

乳児が犠牲に…ヒ素ミルク事件とは

 缶の裏に記されたロット番号から、1955年5月6日に森永乳業の徳島工場で生産されたことが分かっています。

 その夏、西日本の広い地域で、乳児の皮膚が黒ずんだり、肝臓が腫れたりするなど原因不明の病が続出し、病院に子どもを連れた親が殺到しました。

 7月に岡山大学付属病院を受診した最初の患者、生後8カ月の男の子のカルテには、肝臓の腫れや咳、発熱などの症状がみられ、輸血を行ったことなども書かれていますが、原因が分からないまま、約2週間後に死亡しました。

 8月、岡山大学医学部は乳児の異常がヒ素中毒によるものだと初めて特定します。森永乳業の徳島工場で生産された粉ミルクに、猛毒のヒ素が混入していたのです。この頃、県内ではすでに3人が亡くなっていました。

 当時、徳島工場では粉ミルクの品質を安定させるために、製造過程で「第二リン酸ソーダ」を使っていました。ところが、業者から納品されたのは、食用に適さない質の悪いもので、その中にヒ素が含まれていたのです。さらに工場では適切な検査が行われておらず、そのずさんな安全管理が、やがて事件へと発展しました。

 当時「森永ヒ素ミルク事件」の被害者は1万2000人以上、そのうち130人の幼い命が失われました。

「母親は自分を責めた…」被害者は語る

(森永ヒ素ミルク事件の被害者/菅野孝明さん)
「元気になれ、元気になれと飲ませ続けた、そのミルクの中に毒が入っていた」

 岡山市に住む、被害者の菅野孝明さん(68)。

 原因不明の熱やおう吐に苦しむ菅野さんを回復させたい一心で、母親は、粉ミルクを飲ませ続けたそうです。

(森永ヒ素ミルク事件の被害者/菅野孝明さん)
「子どもははねのけて飲まなかったり、すぐ戻したりしても、それでも無理やり飲ませたと。それは本当に親として、母親として一番つらいことだったと。あとで『なんてことをしたんだ』と、自分自身をすごく責めたようです」

 その年10月、厚生省が第三者委員会を設置。専門医の意見などをもとに、事件からわずか数カ月で「ほとんど後遺症の心配はない」とみなしました。

 しかし、その根拠はあいまいで、公平性に欠けるものだったため、親たちの不安が解消されることはありませんでした。

 菅野さんは一命をとりとめたものの3歳ごろから重度のぜん息をわずらい、入退院を繰り返しました。

(森永ヒ素ミルク事件の被害者/菅野孝明さん)
「病院に行ってもヒ素ミルクの被害者です、患者ですというだけで、ちゃんと見てもらえないことがあったので、なかなか口に出して言えませんでした。ヒ素ミルクの患者ということは伏せて、病院に通っていました」

後遺症が明らかに 国や企業が救済

 こうした被害者の体調不良などがヒ素ミルクの後遺症である可能性が高いと明らかになったのは、事件から14年もの月日が経った1969年。追跡調査を行った被害者の多くに、重度の身体障害や知的障害を含むさまざまな異常がみられるという結果を大阪大学医学部の教授らが発表したのです。

(森永ヒ素ミルク事件の被害者/菅野孝明さん)
「重度の被害者は成人する前に亡くなった人がたくさんいます。成人されても障害が残った人、あるいは岡山市でも自殺をされた方も、そういう差別とかいろんなことがあった」

 後遺症が明るみに出たことで、被害者の親たちは企業や国に対策を求める活動を進めました。

 未開封の粉ミルク缶が被害者の家族から岡山大学医学部へ託されたのは、ちょうどその頃です。

(岡山大学/太田武夫 名誉教授)
「缶を開けずに残っているのはこれぐらいしかないと。ですから、ひとつお願いしますと。いつかヒ素が一体どのぐらい入っていたのか、ヒ素以外に何があったかをもう一度検証しないといけない、その時に初めて開ける、我々にとっては大事な預かりものということで金庫にしまったわけです」

 当時、広島で行われた後遺症の追跡調査に関わり、その深刻さを目の当たりにした岡山大学の太田名誉教授(84)は、事件をこう振り返ります。

(岡山大学/太田武夫 名誉教授)
「岡山大学はその当時ずいぶん苦労して、対応したと思っていましたが、そのあと否定的になっていくわけですね、後遺症に関しては。後遺症はないと。そこのところで過ちがあったと、僕は思います」

 1973年、刑事裁判で工場関係者の有罪が確定した森永乳業は、厚生省、被害者団体との会談を経て、恒久的な救済に取り組むことを約束しました。

 今も、三者の合意で設立された「ひかり協会」が、被害者の救済事業を行っています。被害者団体は、親から事件当事者の子へと引き継がれ、過渡期を迎えています。

(守る会 岡山県本部/森脇良明さん)
「守る会自体は活動を終えて、解散することは決まっているんですけど、最終的なわれわれの救済事業、これを決めるときに、被害者でしか分からない道筋、方針などをひかり協会に提起していく」

進む被害者の高齢化…事件を後世に

 事件から68年。高齢化が進む被害者たちは互いのつながりを大切にしているといいます。

(森永ヒ素ミルク事件の被害者は―)
「父が『飲ませるのをやめろ』と言って、慌てて飛んで帰ってきたって。これ(被害者手帳)があったら私を守ってくれるからともらったのが高校生ぐらいの時です。(Q.それまで事件のことは?)全然何も知らなかったです」
「結婚する時でも(被害者であると)一応言わないといけない。それが初めてですね、森永のことを話したというのは」

 この日は初めて公開された未開封の粉ミルク缶を一目見ようと、岡山大学を訪れました。

(岡山大学医学部 医学資料室/木下浩 室長補佐)
「未開封のものはいろいろ調べた範囲ではない。おそらくこれが唯一のもの。ロットナンバーを調べたところによると、明らかにヒ素が混入されていたということが分かります」

 原因不明のまま亡くなった最初の患者のカルテには、ヒ素ミルクの文字が書き加えられていました。

(森永ヒ素ミルク事件の被害者)
「見ると思い出してつらいな」

(森永ヒ素ミルク事件の被害者/菅野孝明さん)
「被害者自身が何があったのか知らなかった。僕たちは何でヒ素の入っているミルクを飲んだのか知らなかった」

(森永ヒ素ミルク事件の被害者/平松邦夫さん)
「まだまだこの事件は終わっていないし、生き残った我々は何とか元気を出して、老後に向けて頑張っていこうと。事件のことを知っていただいて、こういった事件が二度と起こらないような、そういう日本の社会になっていったらいいなと」

(森永ヒ素ミルク事件の被害者/菅野孝明さん)
「私たちはこの缶のミルクを飲んだことで、本当に大きな被害を受けて、多くの仲間が死んでいきました。障害の残った仲間もいるし、私たちはこれを後世に風化させないように残していきたいなと思っています」

 森永ヒ素ミルク事件の被害者は、約1万3000人。
 食への安全意識や、事件を取り巻く社会のあり方を問いかける、これらの史料は10月27日まで展示されています。

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