岡山県瀬戸内市にある国立ハンセン病療養所「長島愛生園」では、全国で初めてひとりの入所者の解剖記録が一般公開されています。遺族の男性は、身内にハンセン病患者がいたという事実を、長らく心に秘めていましたが、「ある思い」を込めて、公開を決めました。
(大伯父・仙太郎氏の解剖録を公開/木村真三さん)
「これが知られることによって、身内とかそういう人たちに、未だに差別とかが起きるのではないかというような形で、心の中にしまっていたんです。私の家からはハンセン病患者が出ましたということを、はっきりと伝えられなければ、差別というのはなくならない」
日本ではかつて、国の誤った政策により、多くのハンセン病患者が強制隔離されました。
ハンセン病は「らい菌」によって手足などの末梢神経が麻痺する病気です。感染力が非常に弱く、戦後には治療法も確立されましたが、隔離政策は1996年まで約90年続き、入所者やその家族はいわれのない差別や偏見に苦しんできました。
今もなお根深く残る問題に理解を深めてもらおうと、解剖記録の公開を決意した遺族の男性。その活動と思いに迫ります。
2021年、長島愛生園で見つかった32冊の解剖録。開園した翌年の1931年から1956年の間に亡くなった入所者の約8割、1834人分の記録が残っています。
本来は遺族や医師だけが閲覧できるものですが、2022年10月から、一人の入所者のカルテや解剖記録などが、全国で初めて一般公開されています。
愛媛県出身で1939年に入所し、2年後、55歳で亡くなった木村仙太郎さん。
公開されたカルテには、仙太郎さんの体の特徴や病状のほか、23歳頃にハンセン病を発症したこと、離婚歴があったことなども書かれています。
(長島愛生園歴史館 学芸員/木下浩さん)
「木村仙太郎さんは、ハンセン病を患っているということで入ってきたんですけど、実は同時に結核を患っていました。カルテを見る限り、ハンセン病と結核の治療をしたという記録はありません。おそらく末期の症状だった。療養しているという形が見て取れるかなと思います」
死亡診断書には、仙太郎さんは「肺結核」で亡くなったと記されています。
そして解剖記録には、体の表面から内部に至るまで、詳細な記録が残っています。こちらには、ハンセン病の後遺症で、左手は親指以外、右手はすべての指が欠損していたと示されています。
(大伯父・仙太郎氏の解剖録を公開/木村真三さん)
「(当時は)まだまだ未知の部分が非常に多くあって、感染症対策というのを図るためには、丁寧に解剖することによって、その原因が見いだせるのではないかという期待が込められた解剖の仕方だっただろうとは思います」
公開を要望したのは、放射線衛生学者でもある遺族の木村真三さんです。木村さんは28歳の時、大伯父にあたる仙太郎さんがハンセン病であったことを初めて知りました。祖母の遺品の中に、療養所から届いたハガキが見つかったのです。
(大伯父・仙太郎氏の解剖録を公開/木村真三さん)
「そこで初めて、仙太郎という方がハンセン病患者だということを両親に問いただすことになったわけです。その時に父が、『実はそういう人がおったんよ』と。そういう話をした時に、横にいた母が『そんなもんうちは聞いとらんで』って言ったんですね。そうしたら父が母を見て『そがいなもん言うたら結婚させてもらえんやないか』と。そういう風に言った時に初めて、事の重大さということが、自分の我が事に置き換えられたと」
官民一体となって、患者を一人残らず療養所に収容する「無らい県運動」が行われていた時代。ハンセン病に対する差別や偏見は、本人だけではなく親族にも及んでいました。
(大伯父・仙太郎氏の解剖録を公開/木村真三さん)
「自分の家からハンセン病患者が出たということに対する大きな問題というか、これが知られることによって、身内とかそういう人たちに、未だに差別とかが起きるのではないかというような形で、心の中にしまっていたんです」
しかし、今から5年ほど前、木村さんは仙太郎さんについて知りたいと、その足跡を調べ始めました。
(長島愛生園歴史館 主任学芸員/田村朋久さん)
「こちらの資料が患者収容簿といいまして、長島愛生園に新たに患者さんが入って来た時に、どこからどうやって入って来たのか、そういったものをまとめた資料になります」
長島愛生園で見つけた仙太郎さんの記録。故郷に帰れないまま亡くなった多くの入所者が眠る納骨堂を訪ねると……。
(大伯父・仙太郎氏の解剖録を公開/木村真三さん)
「木村仙太郎の遺骨があったと。ああ、ここに大伯父が眠っているんだ、初めてそこが対面ですよね」
仙太郎さんの遺骨は、木村さんに引き取られ、愛媛県にある家族のお墓に納められています。
(大伯父・仙太郎氏の解剖録を公開/木村真三さん)
「ちゃんとした浮かばれるようにしてあげたいなという、その気持ちだけでしたね。だからゆっくり、78年ぶりに帰還をしたというそこで、安らかに眠って欲しいというのが最後の願いでしたかね」
放射線衛生学者として、福島で原発事故の被ばくに関わる調査を続けてきた木村さん。ハンセン病患者に対する差別・偏見と、被ばくの風評被害などを受ける人たちの姿を重ね合わせ、解剖録の公開を決めました。
(大伯父・仙太郎氏の解剖録を公開/木村真三さん)
「遺族としては、そっとしておきたいという気持ちも当然あります。遺族であるとか、私の家からはハンセン病患者が出ましたということを、はっきりと伝えられなければ、差別というのはなくならない」
こちらは、入所者が解剖に同意したことを示す「剖検願」です。亡くなる1週間前の日付と、仙太郎さんの名前が書かれていますが……。
(長島愛生園歴史館 学芸員/木下浩さん)
「解剖録にも記載されていますが、よく見ていただくと指が4本ありません。もう一つの手は指が5本ともありません。指をなくされている木村さんが書いた字ではない、おそらく代筆だろうということが想像できます」
解剖にあたって、適切な同意が得られていたのかなど、不明な部分も多くあります。
木村さんはこの公開によって、さらなる真相の究明や資料の保存が進み、差別の解消につながることを願っています。
(大伯父・仙太郎氏の解剖録を公開/木村真三さん)
「『(身内に)ハンセン病患者がいます、いました』と、『何か私たちができることがありますか』と問われたことがあって、『十分にやれますよ』と。第二、第三の僕のように、解剖録を開示してくれるような人たちが出てくれば、何をされたかも明らかになってくる。いろんな時代の人たちの解剖録が開示されることによって、この重要性が出てくるのではないかと思いました」
木村仙太郎さんの解剖録は、6月中旬ごろまで長島愛生園歴史館で公開されています。