戦中、戦後の苦難を今後とも語り継ぐ。15日、戦没者追悼式での天皇陛下のお言葉です。80年前の戦争の記憶と平和への思いは、どのように受け継がれているのでしょうか。
■戦後80年…どのように受け継ぐ
今年の戦没者追悼式で、天皇陛下は例年とは違う一言を付け加えられました。
天皇陛下 「戦中、戦後の苦難を今後とも語り継ぎ、平和と人々の幸せを希求し続けていくことを心から願います」
「語り継ぐ」という言葉です。
■平和への思いを次世代へ
上皇さまは戦下をどう過ごされていたのでしょうか。
一緒に疎開したご学友の明石元紹さん(91)です。
上皇さまのご学友 明石元紹さん 「(疎開先から)毎日、歩いて田母沢御用邸や植物園に我々は行っていた。子どもの足であるのと、ものすごい寒さで…」
日光田母沢御用邸は当時のまま残されています。上皇さまは、ここで生活し、歩いて10分ほどの植物園で同級生らと授業を受けられたといいます。
日光田母沢御用邸記念公園 芳賀智一主任専門員 「大正時代には貞明皇后が使っていたエリア。上皇さまが疎開されていた時、こちらでお休みになられたと聞いている」
ここから皇居の方角に向かって拝礼されたといいます。
しかし、戦況が悪化。御用邸には今も防空壕(ごう)が残されています。
日光田母沢御用邸記念公園 芳賀智一主任専門員 「(Q.一般的な防空壕との違い?)入り口は10センチの鉄の扉。かなり頑丈なもの」
中を進むと薄暗く、下には水がたまっていました。
上皇さまも防空壕へ…。
日光田母沢御用邸記念公園 芳賀智一主任専門員 「昭和20年2月にB29がこの上を飛んだという記録があり、その際、上皇さまに係がおすすめして、防空壕に入られたという記録が見つかっている」
疎開先の日光まで飛んできた爆撃機。さらに、山奥にある奥日光の南間ホテルへ逃げられます。
上皇さまのご学友 明石元紹さん 「日光の町は足尾銅山から兵器になるようなものを運んでいたため、それを狙ってアメリカが爆弾を落とすので、危ないというので湯元へ行った」
移動してから1カ月足らずの1945年8月15日。
玉音放送 「堪へ難キヲ堪へ、忍ヒ難キヲ忍ヒ」
上皇さまも玉音放送をホテルの一室で聞かれたということです。
そのホテルは現在、一部が栃木県益子町に移築されています。
室内の音声 「堪へ難キヲ堪へ、忍ヒ難キヲ忍ヒ」
象徴的なフレーズ、その続きはこうです。
室内の音声 「以テ万世ノ為二太平を開カムト欲ス」
「太平を開かん」。平和を願う一節が入っています。
見学者 「私は戦後の人間ですから、日本を変えたいい言葉に聞こえます」 「私たちもそれを知って、子どもたちに伝えていかなくてはいけない」
■沖縄“豆記者”との再会
上皇さまはかつて「私がむしろ心配なのは…次第に過去の歴史が忘れられていくのではないかということです」と危機感を口にされていました。
歴史を忘れないため、次世代につないだ公務があります。沖縄県の小中学生から話を聞く豆記者との交流です。
60年前の映像には上皇さまの傍らに当時5歳の天皇陛下のお姿もありました。その後、上皇さまからこの公務を引き継ぐと、今度は愛子さまを伴われました。
両陛下の強い希望で、愛子さまも同行された6月の沖縄ご訪問。この時、皇太子時代に会った豆記者と再会されています。
豆記者 金城若葉さん 「沖縄のことを思ってくれて、とてもありがたいという気持ちと同時に、皇室の皆様のことを知りたいと思う、私たち沖縄のことを知ってほしい、伝えたいと思う」
愛子さまは今月15日、御所で黙祷(もくとう)され、上皇ご夫妻も式典の様子をテレビ中継でご覧になり、時刻に合わせて黙祷したということです。
天皇陛下 「戦中、戦後の苦難を今後とも語り継ぎ、私たち皆で心を合わせ、将来にわたって平和と人々の幸せを希求し続けていくことを心から願います」