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きっかけは「姉の死」 岡山空襲犠牲者の実数を20年以上調査を続けてきた男性

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 6月29日は「岡山空襲の日」です。75年前、多くの人が亡くなりました。岡山空襲の犠牲者の実数を明らかにしようと長年、調査を続けてきた男性を取材しました。

(辻野喬雄さん) 「ドーンいうたからばっと見上げたら、ちょうど真上か東寄りに花火が開いてるんです」

 岡山市の辻野喬雄さん、87歳。75年前のあの日、自宅で眠っていたところを母に起こされ、家の外に飛び出しました。

 1945年6月29日未明、アメリカ軍の爆撃機が落とした約9万5千発の焼夷弾で、岡山市の市街地の約6割が焼失しました。

(辻野喬雄さん) 「ドーンとちょっと地面に当たって、どっがーんと爆発音がしたんです」

 辻野さんは焼夷弾が雨のように降る中、姉の昭子さんと近所の池に飛び込みました。

(辻野喬雄さん) 「大勢来てましたよ、皆こうやってばちゃばちゃ水かけて、とにかく火を消した」

 姉の昭子さんはこのときの足の傷が原因で破傷風にかかり、約2週間後に亡くなりました。まだ16歳の若さでした。

(辻野喬雄さん) 「今みたいに戦争中は兄弟でも遊ばんからな、4つ離れてればなおのこと。でも可愛がってはくれとったんじゃろうな」

 姉の昭子さんを含めて多くの人が亡くなった岡山空襲。岡山市では過去に市や岡山県がまとめた資料から犠牲者の数を「少なくとも1737人」と公表しています。

 しかし辻野さんは、犠牲者の実数を明らかにしようと20年以上調査を続けてきました。

(辻野喬雄さん) 「1737人とはいかなる根拠の数字かというのが最初からあいまいだったんです。やっぱり死者への追悼、空襲の実態を正確に後世に伝えたいと」

 辻野さんが注目したのが、1960年発行の「岡山市史 戦災復興編」に記載されている死者の収容数をまとめた表です。  現在の戸籍法では災害などが起きた時、遺体を取り扱った警察署は市町村に死者の数を報告する必要があると定めています。死者の数は「岡山東署」「岡山西署」「その他」に分けられ、空襲があった年の8月6日までの合計が1737と記されています。


 これは岡山市が公表している犠牲者の数と同じです。

(辻野喬雄さん) 「死者表の8月6日で1737と(岡山市が)根拠にしとるとしか考えられない。1737とは死体収容所で8月6日まで閉鎖されるまであった、警察が検死して警察署長報告を書いた死者にすぎないという結論をした」    辻野さんがこう考えた理由の一つに「姉の死」がありました。岡山空襲で足にけがをした姉の昭子さんは、岡山市から現在の吉備中央町にあった親戚の家に疎開しました。  しかし空襲から2週間後の7月12日に亡くなりました。

(辻野喬雄さん) 「普通死んだら身内が医者の診断死亡届出して籍を落とすわけですけど、姉の戸籍は金川警察署長報告で戸籍抹消している。金川警察なら三つの分類の「その他」になる」

 死者収容数の表の「その他」の欄を見てみると7月6日に「13人」と記された以降、記載がありません。その後、7月12日に亡くなった昭子さんは表に書かれた死者1737人に含まれていなかったのです。

(辻野喬雄さん) 「死体収容所にいってない警察署長報告はこれに入っていない、確証が取れた」

 さらに辻野さんが調べたところ、近所に住んでいた4人も表に書かれた死者数に含まれていないことが分かりました。

(辻野喬雄さん) 「家族4人(の死亡届)は父親が処理しているから警察署長報告ではない、戸籍を確認して返事をくれた。1737以外の空襲で死んだ人があるということが4人にしてもはっきりした」

 辻野さんは姉や近所の人のように、死体収容所に運ばれることなく命を落とした人がもっといたはずだと考えています。  しかし岡山空襲から75年がたった今、正確な数を知ることの「限界」を感じています。

(辻野喬雄さん) 「遺族の個人個人の戸籍を確認するしかないからね。これからやるといっても家族の中で情報を持っている人がもういない現実がある。私なりにはきりかなと思っている、あとはこれをいかしてほしいという思い」


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